Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

舞鶴に行ってきた

今日は、母教会*1舞鶴福音教会に行ってきた。

母教会へ行くのは、これが多分3ヶ月ぶりくらいだと思う。最近ご無沙汰してた。

舞鶴という地は、僕にとって、様々な思い出がある地だ。いい思い出もあるし、嫌な思い出もある。

その嫌な思い出と言うのは、今でも思い出にできていない側面もあり、非常に微妙な感覚である。

とは言え、舞鶴に行くのがどうしても嫌というほどでもない。

前置きはこのくらいにして、今日のことを少し話そう。

日舞鶴福音教会に行ったのは、もちろん礼拝が目的ではあるけど、午後にあるチャリティーコンサートもお目当てだった。

今年のコンサートは、工藤篤子*2さんをゲストに迎えてのコンサートだった。彼女はソプラノ歌手で、とにかく声がすごい*3

ソプラノ歌手の歌声を間近で見ることは、そうそう無いので、とても良い機会だった。

彼女の歌声はもちろんであるが、信仰の姿勢もとても素晴らしかった。
彼女の信仰は、神概念のバランスも良いし、神学的な理解も確立されている*4

それでいて、彼女の信仰は情熱的で、イエスへの愛と献身の思いに満ちていた。

僕は、日本人クリスチャンに、こんな感じ*5の人がもっと増えればいいなと思っている。

そういう僕自身も、果たして神の栄光を切に、第一に求めているか?と、今神様に問いかけられた気がする。

どうだろうか。

まあ、この問に対する答えは、じっくりと検証してみる必要があると思う。

今日はそんな日だった。
あと、寿司がうまかった*6

今日も良い一日だった。

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*1:洗礼を受けた教会のこと

*2:工藤篤子ワーシップ・ミニストリーズ

*3:詳しいことは専門ではないし、調べて書くのも面倒なので、気になる人は各自調べていただきたい。

*4:彼女は伝道師をされていたようなので、それは当然といえば当然なのだが。ただ、日本の牧師に ありがちな聖書理解のアンバランスさがなかった(これは牧師批判というより、率直な感想を述べただけである)。

*5:ある程度の神学的土台のある、強い信仰を持ったクリスチャンのこと。あるいは、神という絶対者を明確に意識して、自分の生活がどうこうと言うよりは、ただ神の栄光を求めるクリスチャンのこと

*6:帰りに回転寿司で食事をした。いつもの外食よりちょっと高ついたが、美味しかったので予算オーバーについては不問とする。

ふつうはいいぞ?

なんとなく、新卒でフリーランスになった人や、何処かでフリーランスに転向した人のブログを眺めていた。

彼らはいろいろな経緯を辿って、フリーランスになったようだ。

僕も、フリーランスというものに憧れて、一度それっぽい活動をやってみたことがある。

結果どうだったかって?今普通にサラリーマンやってるんだから、そういうことだ。

僕がフリーランスに憧れたのは、お恥ずかしい理由だが、就職活動がうまく行かなかったからだ。

今から考えてみると、あのアピールと態度じゃ無理だよなぁと思うのだけれども、当時はそんなことにも気が付かなかった。

他のいろいろな痛手もあって、すっかり気が滅入ってしまったのである。就職活動を投げ出したかった。

就職活動からの逃避が、フリーランスへの憧れだったのだ。

あとは、「ふつう」ということに対する、ある種の嫌悪感とも言える感情もあった。

「レールを外れよう」という、よくあるアレだ。あれは本当にたちが悪い。


そんな僕も、今では無事会社員の仲間入りである。

僕は今、嫌悪していた「普通」の生活を送っている。

朝同じ時間に起きて、会社に行って、技術者っぽい仕事もそれっぽくない仕事も無難にこなして、7時くらいになったらぼちぼち帰る。

帰って少し休んだら、もう寝る時間だ。今日もぼちぼち働いた。

それを月曜から金曜まで続けて、たまに土曜に出勤する。

これを、あと何千回と繰り返す。

そうだ。彼女もできた。ゆくゆくは結婚して、これまた普通の結婚生活を送るだろう。

この話を伝記にまとめたとしても、たいして面白くない。

僕の障害や彼女の障害を含めたら、少し起伏のある物語になるかもしれないが、それにしても本になる程でもない気がする。


それでも、今僕は幸せだと思う。

確かに、時々日々がつまらなくなるときもある。
もっと注目されたいとか、有名になりたいと思うときもある。

でも、それって僕の欲から出てるものであって、成就したところで
さらなる欲が出てくるだけだ。

限りある人生を、底なし沼のような欲を満たすだけに浪費していいのだろうか。


伝道の書に「空の空。一切は空である」とある。

この言葉は、当時で考えうるすべての快楽を貪り尽くした、ソロモンが語った言葉だ。

彼はすべての欲を満たし尽くしたあと、「空の空」と言った。

彼は、神を除外した一切の快楽や富は、全て虚しいと証言したのだ。

やはり、欲を貪るだけの人生は空虚だ。


僕は今、普通の人生を歩んで、普通の幸せを得ている。
それに加えて、神をおそれ、神に従って生きようとしている。


これだけで十分じゃないか。
これ以上の幸せはどこにある。

ふつうはいいぞ?

人生の主役に専念しよう

「あなたは人生の主役です」という言葉の落とし穴

「あなたは人生の主役です!」

自己啓発系のブログや書籍を読むと、ほぼ必ず出てくるセリフである。
これは非常に魅力的なセリフであるし、なんだか本当にそんな気がしてくる。

しかしちょっとまってほしい。仮に主役は私だとして、脚本や演出は誰なのか。
自己啓発本などを読んでいると、どうも脚本や演出まで、主役がやることになっているようだ。

それはあまりにも、主役に多才さを求め過ぎではないか。

私が思うに、自己啓発本が絵に描いた餅である理由は、この点が考慮に入っていないからだと思う。

そのことに気が付かないで、自己啓発的思考によって、かえって挫折感を味わう人がどれほどいるだろうか。

このことを思うたびに、自己啓発的思考には多くの欠点がある事を認めざるをえない。

人生の脚本家や演出家は誰か

上記の議論に納得いただけたとして、次に問題となるのは、人生の脚本や演出を誰に頼むかである。

せっかく頼むなら、当然名の通った、それなりに評価が高い人が良い。

自分の好みを理解してくれて、自分が理想とする人生を作ってくれる人が良いに決まっている。

そういう思いが神格化され、体系化されたのが「宗教」である。

残念ながら、このような宗教に「キリスト教」が少なからず含まれていることを認めなくてはならない。

キリスト教史は、権力と富によって腐敗した教会の姿を何度も記録している。

私たちは、欲望が形となったようなものに、自分自身の人生の脚本を任せてよいのだろうか。

真の脚本家を探し出そう

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば見つかります。

マタイによる福音書 7章7節

それでは、真の脚本家を探し出すにはどうすればよいか。その答えは、上に引用した言葉のとおりである。

人生の価値は、自分の人生を導いてくれる存在によって決まると言って良い。
私たちは、そのような存在を熱心に探し求めることを要求されている。

これを誰にするかは、あなたが決めるべき事柄である。

しかし、私はその存在として、万物を創られた神という選択があることを伝えたい。

あなたは知っているだろうか。この天地宇宙を、そして人間をも創られた神を。

あなたは知っているだろうか。人間が神に背き、その身に罪を招き、その罪の結果が死である事を。

あなたは知っているだろうか。神はその罪を嘆き、罪の贖いのために、御子なるイエス・キリストを十字架につけられたことを。

あなたは知っているだろうか。そのイエスは復活し、そして天に昇られ、今も生きて私達のために祈ってくださっていることを。

あなたは知っているだろうか。このことを信じた私達のうちに聖霊が降り、私達が御子イエスと同じ性質に造り替えられつつあることを。

あなたは知っているだろうか。イエスはやがて地上に再臨され、この天地を裁かれる裁き主である事を。

あなたは...この神こそが、私達の人生の真の脚本家であることを知っているだろうか。


さあ、私たちは今日、岐路に立っている。神以外の何かに人生の脚本・演出を任せるか、神にすべてを任せるか。

繰り返すが、それを決めるのはあなただ。

聖書の神を人生のシナリオライターとして認め、人生における神の主権を認めようではないか。

そうすればあなたは、脚本や演出に時間を奪われることなく、主役を演じることに専念できるだろう。

人生は本来、そのように生きるべきではないだろうか。

Angel Beats!に見る救済論

かなり今更なような気がするが、Angel Beats!を久しぶりに見返して思ったことをメモ。

Angel Beats!とは、2010年4月から6月まで放送されたTVアニメである。原作・脚本はKey所属のシナリオライター麻枝准(まえだ じゅん)が手がけた。

キャッチコピーは「―神への復讐。その最前線」である。

物語は、死後の世界の学園を舞台として展開される。物語が進むに連れて、この学園には、生前報われない人生を送った人が来るらしいということがわかる。

主人公は、この学園に迷い込んだ「音無結弦」という一人の男性である。彼は気がついたとき、何かと戦っている少女の横にいた。

その少女いわく、戦っているのは「天使」と呼ばれる人物であって、彼女はこの世界の統治者、つまり神的な、あるいは神の代理人としての役割を持っているという。

つまり、生前理不尽な人生を送った彼女らは、死後の世界において「神への復讐」としての戦いを繰り広げていたのである。

はじめはこのことに懐疑的だった音無も、徐々に彼女らと打ち解け、行動を共にするようになる。

彼らは天使と戦いつつ日常を送っているうちに、何人かの親しい友人が、生前の無念を晴らし「消える」ことを経験する。

この経験を何度か繰り返すうちに、彼らはある一つのことに気づき始める。

「この世界は救済のための世界ではないか」

それに気がついた彼らは、天使と戦う以外の、新しい目的を見出していく。

そして、やがて学園世界においてそれぞれの無念を晴らした彼らは、一人また一人と消えていくのだった。

あらすじとしては、以上で十分だろう。

 

この物語のキーポイントは一つではないと思うが、私はやはり麻枝准なりの「救済論」が、Angel Beats!を読み解く上での一番のポイントではないかと思う。

輪廻転生とか、神的概念とかは、おそらく救済論を語るための仕掛けにすぎない。

 

彼(麻枝准)は、視聴者に対して、人生の素晴らしさを伝えたかったのだと思う。

 

確かに、生きていると、人生はなんと理不尽かと思うことが多々ある。それは自分の人生にも起こるし、親しい他人の人生にも起こるし、赤の他人にも起こる。

私自身、昔の友人が、先日病気でこの世を去ったということを耳にした。彼女は非常に優秀で、この先生きていれば様々な活躍が見込まれただろう。

これは主観的に考えれば、実に理不尽である。些か極端な話であるが、例えば殺人事件を起こしたような人が生きていて、なぜ彼女が死ななければならなかったのか。

 

この疑問は、本作のヒロインである仲村ゆりも口にしている。

彼女は良い姉であったが、強盗に妹二人を殺されて、自身も何らかの理由で、若くしてこの世を去ったのである。

彼女以外にも、主要な登場人物の死因と送ってきた人生は、とても理不尽なものである。

 

麻枝准は、このような理不尽な人生についての一つの答えを、この作品で示したのである。

それが天上での学園生活と、輪廻転生という死生観なのである。理不尽な人生を送った者には、死後青春をやり直す特権が与えられ、更に転生してまた人生をやり直すことができるのである。

これが、この作品の救済論だと思う。

 

さて、以上の議論を踏まえた上で、私はこの救済論についてどう思うかということを書き記したい。

個人的には、この救済論は好きだが、賛同できない。

 

これは私のキリスト教的価値観もあるけれども、一番の理由は、人間中心すぎる。

「神」というキーワードを持ち出してはいるものの、結局神という存在を否定して(これは作中でも、そのようなことをほのめかしている)、あくまで人間中心なのである。

「私」という存在が納得できる形としての理不尽さに対する説明が、この作品の根幹なのだと思う。

 

しかし、このような思想では、根本的な救済にはならない。理不尽さという不可解で納得できない現象を説明するには、どうしても絶対者としての神が必要なのではないか。

そのような神概念がないのが、日本人が書く作品の限界なのだと思う。

キリスト教圏の作品にはそのような根幹があり、日本人もそれを真似て書こうとするのだけれども、本質が理解できないから所詮は真似事で終わってしまう。

だから、「神」という言葉を持ち出して、「神」という存在が絶対者であるような文学作品が書けないのである。

 

以上が、Angel Beats!を読んで私が思った感想である。

 

まあ、今までの議論を台無しにするようだけど、天使ちゃんマジ天使ってことでこの作品の役割は十分果たしていると思う。

おわり。

私がなぜイスラエルの神を信じるか

私は、聖書に啓示されている神を信じる。

この神は、天地を創造された神であって、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。また、イスラエルをエジプトから導き出した神でもある。

更に、救い主イエス・キリストの父なる神であり、やがて来るべき終末時代において、厳格な裁きを行われる神である。

 

私と神との出会いは、私が高専在学中に起こったことであった。当時の指導教員がクリスチャンで、研究室の学生である私を誘ったのである。

当時の私にとって、まさにその指導教員が神であった(このような指導法が、聖書的だとは到底思えないが)。その彼が誘うのだから、私に拒否権はなかった。

更に、それが学会の帰りの、夜行バスから降りたすぐの出来事である。なおさら断りにくいので、私はとりあえず同行することにした。

 

初めて行った教会については、あまり覚えていない。確か少し肌寒い季節で、眠気を堪えながら入った会堂がとても暖かかったことだけを覚えている。

眠い中暖かい会堂に入って、牧師のよくわからないお話を聞いたら、当然眠くなるにきまっている。

気がついたら献金の時間になっていて、とりあえず100円くらいを入れた覚えがある。

 

一度教会に行ったという実績ができてしまえば、帰ってから地元の教会に誘われても断りにくい。結局、私は当時住んでいた学生寮から、自転車で30分くらいの教会に毎週通うことになった。

はじめのうちは、聖書の言っている罪だとか救いだとかが、全くわからなかった。

そもそもなぜ自分が罪人なのかさえ、よくわからなかった。

 

しばらく教会に通っていると、聖書の学びをしないかとのお誘いが来る。これについても、私は当初あまり乗り気ではなかったが、上述の指導教員との関係もあって、とりあえず行くことにした。

何度か聖書の学びを重ねていくうちに、いよいよ通うのが面倒になってきた。そんな時出てきたのが、暖かいカレーと美味しいサラダである。

当初私が住んでいた学生寮では、毎日給食が出されていた。その給食は、平日はそれなりに美味しいのだけれども、休日の昼ごはんははっきり言って美味しくなかった。

予算合わせのような質素な昼食が多かったのである。

当時まだ育ち盛り(?)だった私は、頭のなかで、寮食と教会で出されるカレーを比較したのである。そうすると、当然カレーに軍配が上がったので、私は聖書の学びを続けることにした。

 

そうして、なんとか聖書の学びを続けているうちに、私の中に良心の呵責が生まれてきた。私が何気なく、今まで許容していたことが、実は神の基準から見れば悪いことだと分かってきたからだ。

これがわかったとき、たしかに自分には、キリストの十字架の贖いが必要なのかもしれないと思った。そうして感情的には、洗礼を受ける決心をしたのである。

 

しかし、学びから時間が経って思い直してみると、学びの最中に感じたような「救いの必要性」を、感覚的に思い出せないのである。こうなってしまうと、自分は単にこの良心の呵責から逃れるための手段として、救いを逃げるための手段と考えているのではと不安になってしまう(もちろんそのような側面もある)。

そんな思いを持ちながら、ローマ人への手紙を読んでいたとき

ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです

ローマ人への手紙 7章17節

という御言葉を発見した。

私はこの御言葉によって、良心が責め立てられるようなことを行ってしまうという問題の本質は、自分が持っている罪の性質にあることを理解した。また、聖書の他の箇所から、この罪の性質は生まれ持って備わっているものであるとも理解した。

私にとって、この説明は非常に分かりやすかった。私は先天性の身体障害を持っているが、自分にとってはごく普通のことなのである。それと同じように、原罪も「ごく普通に」持ち合わせていたのである。

原罪が根深いものだとすると、やはり良心の呵責から逃れるだけでは不十分で、この問題の本質を探る必要があると考えるのが自然である。

そういうわけで、更に聖書を読み考えた結果、原罪について次のような結論に至った。

  1. 仮に、原罪を先天性の障害のようなものだと考えると、他人と比較しないとそれを定義することができない。健常者と言われる人を基準にしないと、障害者を定義できないのである。
  2. そうすると、原罪を持ち合わせてない人間はいるのか。
  3. 神である(当時はされるという仮定で考えていたかもしれない)イエス・キリストがそうである。
  4. キリストや神の啓示である(とされる)聖書を基準にしないと、原罪を定義できないのである。

今まで原罪というものを理解せずに生きてきたのは、単に比較する対象がなかっただけだと知ったとき、なぜだかとても腑に落ちた覚えがある(ちなみに、これは生きている間だけ通用する言い訳である。死んだあとにこのことを持ち出して、自分は罪がないとは言えない。なぜなら、自然から神の啓示を読み取ることができるからだ)。この理解によって、良心の呵責や、今まで生きてきた人生の間違いに理由付けがなされたからかもしれない。

 

ここまで理解したならば、あとは必然的に、イエスキリストの十字架と復活による罪の贖いを信じ、罪の状態から抜け出す道を選択しないだろうか。

もしこれを選択しないなら、提示されている「良い生き方」が「良い」と分かっていても実践できないという矛盾を抱えることになる。これはつまり、私の良心と、そうではない心の一部が分裂を起こしているのである。私にとってこれはとても不可解で不快な状態であり、到底「人間ってそんなもんだよ」と妥協することはできなかった。

そんな状態が「人間」というものなら、なるほど人間とはすでに破綻していて、滅びに至るしかないのだ。

ここまで思考が進んだとき、私はやはり、イエス・キリストの十字架を信じることが必要だと確信した。

上記のような思考ができたのは、神の助けがあったからだと思う。今日は極めて論理的に説明したつもりだが、やはりどこかで論理の飛躍があると思う。それが、神の「啓示」なのだろう。これがないと、イエスを神と告白することはできない。

 

このような思考を裏付けるかのように、次の御言葉が与えられた。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

ローマ人への手紙 7:25

たとえ分裂したままの状態であっても、イエス・キリストを信じれば、その人は「罪の状態」から解放されるのである。罪に留まらざるを得ない、惨めな状態から開放されるのである。

これがキリストの救いだと確信したとき、私は洗礼を受けることを、頭と心で、確信を持って決心したのである。

この教えは、他の宗教にあるような、諦めの境地としての悟りや、偽りの教理による救いではないと確信したのである。これが本物だとわかったとき、私は人生の指針を得たように思った。

 

あれから4年ほどになるが、その間に色々な試練があったし、精神科のお世話になったこともあった。それでも、この救いの確信は揺らぐばかりか、今なお日々確固たるものとなりつつある。

 

私は、イスラエルの神を信じて本当に良かったと思う。

トリプルディスプレイを試みる

どうも。相変わらずご無沙汰してます。

いきなりですが、トリプルディスプレイにしようと思っています。

というのも、たまたまGENOを覗いたら、NECの22インチ液晶が6000円くらいで売ってるのを目撃してしまいまして。

前からもう一枚あればなあと思っていたところ、これはきっと神の思し召しだ。そうだそうに違いないと、ポチってしまったわけです。

どうやら格安製品だったようで、今日見たら無くなってました。

それにしても、液晶も安くなったよなあ。

 

実は以前に、CenturyのLCD-8000Vをこれまた衝動買いしまして、私のiMac (mid 2010)のディスプレイポートは埋まってしまっているわけです。

そんなわけで、今度はこれ買っちゃいました

 

 なんという計画性の無さ。

ディスプレイは多分来週になるので、しばらくは待機。

どんな環境になるのか楽しみだ。

文章作成とは本来楽しいものではなかったのか

そんなことを最近考えている。

自分で言うのもなんだが、僕はそれなりに、文章がかける方だと思ってる。少なくとも、まともに読める文章は書ける方だと思ってる。

それは学生時代のレポート地獄だったり、論文作成の苦労のおかげだと思ってる。もうしばらくはその業界からは離れていたいけれども。

昔は、文章を書くことが楽しみで、好きだった。たとえその文章がガラクタでも、自分で文章を作ることが好きだった。人の評価なんてどうでも良かった。

けれども、段々と書いた文章を人に評価される機会が多くなって、なんだか文章を書くのが非常な苦痛になってきた。

僕の場合、別に物書きを生業にしているわけでもないけれども。

生業といえば、電気工学でも同じような現象が起きている気がする。

昔は純粋に、電気のことを知るのが楽しかった。でも今は、どうだろうなあ。

 

好きなことを仕事にするのは良くないって言うけど、こういうことを言っているのだろうか。

 

仕事とかそういうの抜きにして、今できる精一杯をぶつければ良いのかもしれないなあ。

そんなことを考えた一日だった。