Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

メビウス症候群の当事者が思う事

最近、とある事をきっかけに、自分の障害について少し考えるようになった。

 

どこかの書いてあるように、僕はメビウス症候群なる障害を持っている。

 

この障害について、今までいろんな事を考え、自分なりに折り合いをつけてきた。

 

そんな事を繰り返しているうちに、今ではさほど気にならなくなってきて、文字に起こしてまでこの病気の話をする気が無くなってきたくらいである。

 

でも、先日、今目の前の課題としてこの病気と向き合っている人を見かけたので、もう一度自身のことについても思いを巡らすに至ったのである。

 

この文章は、特に解決策や精神論を語るものでは無いけど、一当事者として、今思う事をとにかく書こうと思う。

 

 

メビウス症候群の特徴は、顔面神経麻痺である。メビウス症候群の顔面神経麻痺は特徴的で、知ってる人が顔を見れば、すぐにそれだと分かるほどだ。

 

ダウン症の当事者の顔も特徴的だが、系統としてはあれに似たものがある気がする。つまり遺伝子というか、そういうレベルで何か共通した欠損や変異があるのだと思う。素人だから適当な事を言っているのは承知している。

 

とにかく、顔を見れば、ちょっと違うことは理解できるはずである。

 

メビウス症候群の当事者は、この顔面神経麻痺で主に悩むことになる。

 

悩む点は世代や周辺環境によって様々だと思うが、主に以下のような点だろう。

 

  • 容姿を不思議がられる・気持ち悪がられる・とにかく話題にされる
  • 咀嚼音が出るなどの、マナー面での問題
  • 結膜炎やドライアイなどの、二次障害
  • 自分の容姿に自信がなくなるなどの、精神面での課題

 

幼少期においては、特に一番目が問題だと思う。他の点での問題も、大体は一番目を起因というか、取っ掛かりとして責められることが多い。

 

僕自身も、一番目で悩んだ事を覚えている。

 

まあ、僕はその経験を作文にして、人権作文コンクールで賞を取るくらいの図太さがあったので、そこまで悩んでなかったような気もするが...

 

顔のことで何か言わせないためには、自分自身にそのような隙を作らないことが必要だと思う。

 

人格的にも責められるような事をせず、何か一つでも得意分野を持ってれば、そのうち容姿で差別するような方々は自然と去っていく。

 

僕の場合は、それが工学だった。もちろん工学が好きでもあったけど、工学で生きて行くんだ! みたいな、妙な必死さもあったかもしれない。

 

まあこれも、やっぱりそのうち打ち砕かれるのだけれども...

 

結局は、やっぱり気にしないことだと思う。容姿をとやかく言わず、一人の人間として関わってくれる人は両親や理加さんをはじめ、たくさんいる。それでいいじゃない。

 

なによりも、僕には独り子を賜ったほどに僕のことを愛してくださった、神様がいる。たとえ誰かが容姿をバカにしても、そりゃちょっと悲しいし悔しいけど、大したことじゃない。

 

そういうわけで、もし容姿で悩んでるメビウス症候群の方がいれば、もっと胸を張って人前に出て欲しい。

 

神様はわたしをとおして伝えたいことがあるから、わたしを今の状態にしているのだと思う。

 

これからも、そう信じで生きていきたい。

気がつけば年末

気がつけば、年末になっていた。

最近、気がつけば・・・と思うことが多い。
気がつけば12月で、気がつけばクリスマスが終わって、気がつけばお正月だ。

僕は自分が忙しくて嫌だなと思ったときは、専攻科を卒業して就職するまでの
期間を思い出す。

あのときは、何もすることがなかった。
毎日がただひたすらに過ぎていくだけで、密度はそんなになかった。

その期間を思ったら、忙しいのも悪くないのかもしれない。

今年の年末は、とても忙しい年末だった。

今日は、理加さんと一緒に、僕の実家に帰っていた。
彼女は調子は、ここ数年で確実に回復していると思う。

以前は旅行をするなんて夢のまた夢ほどに疲れやすいようだったけど
最近では、調子の良い日なら、一泊二日くらいの旅行には耐えれるようになったみたいだ。

統合失調症では、急性期のあとに消耗期と呼ばれる期間がワリと長く続く。
この間は元気そうに見えても、本人は相当疲れているらしい。

彼女は、もしかしたら消耗期を過ぎて、回復期に差し掛かっているのかもしれない。
とは言え、統合失調症は再燃しやすい疾患なので、これからもストレスには注意しなければならない。

服薬とストレスの軽減に努めれば、統合失調症はおそらく寛解に限りなく近い状態に持っていける疾患だと思う。
ただ、認知機能障害が残る事が多いので、日常生活には多少の支障が残るかもしれない。

彼女の話を聞いていても、認知機能の衰えに起因する困難さの訴えが目立つ。
これは、非定型抗精神病薬でも回復が難しい症状らしい。

認知機能の回復には、SSTなどが有効らしいけど、田舎にはそういった社会資源が乏しい。
これは、今後の地域医療の課題じゃないかなと思ってる。

来年は、彼女との結婚について、具体的な行動を起こす一年になると思う。
今以上に統合失調症について情報を集め、祈りつつ最善を行いたい。

来年も、いい年になりますように。

K480レビュー

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少し前に、LogicoolのK480を買った。

このひとの凄いところは、Bluetoothのペアリングが3つまで登録できるところだ。
複数登録できるといえば、昔、ソニエリのMW600*1というひとがいたなあ。

彼にもだいぶお世話になった。
今はBluetoothオーディオ自体あまり使わないので、出番は少ない*2

おっと。MW600の話をしすぎた。K480さんの話に戻ろう。

K480のもう一つの良い点は、Mac, Windows, iOS, Androidに対応している点だと思う。

ここでの対応していると言うのは、単にペアリングできるだけでなくて、キーがそれぞれのOSに対応していることを言う。

つまり、キーボードの刻印どおりに文字が入力できるということ。
これって当たり前なんだけど、結構蔑ろにされやすい。

対応を謳ってるキーボードでも、中途半端な対応の場合が多い。
それに比べて、この子はすごい。本当に、刻印のまま入力できる。

複数PCでキーボードを共有するだけなら、Synergy*3やShareMouse*4で十分だけれども、複数OS間で共有する場合、一筋縄ではいかない。

Synergyはキーマップがおかしくなるし、ShareMouseはきちんと打てるものの、WindowsMacのキーボードを使う設定が非常に面倒くさい。

まあ どちらも頑張ったら改善できるけど、K480買ったほうが早いよね。

肝心のキーの感触については、やや固めだけどまあ許容範囲内。
あと、カタカタうるさいので、スタバでドヤ顔したり深夜作業には向かないと思う。

そもそも重いので、あまり持ち運びには適さないと思う。
軽量化できるらしいけど、未確認。

とにかくそんなに高くないので、複数のOSを同時使用している方は、一台くらい持ってて損は無いと思う。

個人的には、結構おすすめです。





*1:MW600 | アクセサリー | ソニーモバイルコミュニケーションズ

*2:iPhoneの新しいやつには、イヤホンジャックがない。もしこれに変えるなら、彼が再び日の目を見る時が来るかもしれない。そのときに、彼の電池が生きていればだが...

*3:Synergy - Mouse and keyboard sharing software

*4:Share Mouse and Keyboard with multiple Computers

舞鶴に行ってきた

今日は、母教会*1舞鶴福音教会に行ってきた。

母教会へ行くのは、これが多分3ヶ月ぶりくらいだと思う。最近ご無沙汰してた。

舞鶴という地は、僕にとって、様々な思い出がある地だ。いい思い出もあるし、嫌な思い出もある。

その嫌な思い出と言うのは、今でも思い出にできていない側面もあり、非常に微妙な感覚である。

とは言え、舞鶴に行くのがどうしても嫌というほどでもない。

前置きはこのくらいにして、今日のことを少し話そう。

日舞鶴福音教会に行ったのは、もちろん礼拝が目的ではあるけど、午後にあるチャリティーコンサートもお目当てだった。

今年のコンサートは、工藤篤子*2さんをゲストに迎えてのコンサートだった。彼女はソプラノ歌手で、とにかく声がすごい*3

ソプラノ歌手の歌声を間近で見ることは、そうそう無いので、とても良い機会だった。

彼女の歌声はもちろんであるが、信仰の姿勢もとても素晴らしかった。
彼女の信仰は、神概念のバランスも良いし、神学的な理解も確立されている*4

それでいて、彼女の信仰は情熱的で、イエスへの愛と献身の思いに満ちていた。

僕は、日本人クリスチャンに、こんな感じ*5の人がもっと増えればいいなと思っている。

そういう僕自身も、果たして神の栄光を切に、第一に求めているか?と、今神様に問いかけられた気がする。

どうだろうか。

まあ、この問に対する答えは、じっくりと検証してみる必要があると思う。

今日はそんな日だった。
あと、寿司がうまかった*6

今日も良い一日だった。

f:id:kamotti92:20161218205518p:plain

*1:洗礼を受けた教会のこと

*2:工藤篤子ワーシップ・ミニストリーズ

*3:詳しいことは専門ではないし、調べて書くのも面倒なので、気になる人は各自調べていただきたい。

*4:彼女は伝道師をされていたようなので、それは当然といえば当然なのだが。ただ、日本の牧師に ありがちな聖書理解のアンバランスさがなかった(これは牧師批判というより、率直な感想を述べただけである)。

*5:ある程度の神学的土台のある、強い信仰を持ったクリスチャンのこと。あるいは、神という絶対者を明確に意識して、自分の生活がどうこうと言うよりは、ただ神の栄光を求めるクリスチャンのこと

*6:帰りに回転寿司で食事をした。いつもの外食よりちょっと高ついたが、美味しかったので予算オーバーについては不問とする。

ふつうはいいぞ?

なんとなく、新卒でフリーランスになった人や、何処かでフリーランスに転向した人のブログを眺めていた。

彼らはいろいろな経緯を辿って、フリーランスになったようだ。

僕も、フリーランスというものに憧れて、一度それっぽい活動をやってみたことがある。

結果どうだったかって?今普通にサラリーマンやってるんだから、そういうことだ。

僕がフリーランスに憧れたのは、お恥ずかしい理由だが、就職活動がうまく行かなかったからだ。

今から考えてみると、あのアピールと態度じゃ無理だよなぁと思うのだけれども、当時はそんなことにも気が付かなかった。

他のいろいろな痛手もあって、すっかり気が滅入ってしまったのである。就職活動を投げ出したかった。

就職活動からの逃避が、フリーランスへの憧れだったのだ。

あとは、「ふつう」ということに対する、ある種の嫌悪感とも言える感情もあった。

「レールを外れよう」という、よくあるアレだ。あれは本当にたちが悪い。


そんな僕も、今では無事会社員の仲間入りである。

僕は今、嫌悪していた「普通」の生活を送っている。

朝同じ時間に起きて、会社に行って、技術者っぽい仕事もそれっぽくない仕事も無難にこなして、7時くらいになったらぼちぼち帰る。

帰って少し休んだら、もう寝る時間だ。今日もぼちぼち働いた。

それを月曜から金曜まで続けて、たまに土曜に出勤する。

これを、あと何千回と繰り返す。

そうだ。彼女もできた。ゆくゆくは結婚して、これまた普通の結婚生活を送るだろう。

この話を伝記にまとめたとしても、たいして面白くない。

僕の障害や彼女の障害を含めたら、少し起伏のある物語になるかもしれないが、それにしても本になる程でもない気がする。


それでも、今僕は幸せだと思う。

確かに、時々日々がつまらなくなるときもある。
もっと注目されたいとか、有名になりたいと思うときもある。

でも、それって僕の欲から出てるものであって、成就したところで
さらなる欲が出てくるだけだ。

限りある人生を、底なし沼のような欲を満たすだけに浪費していいのだろうか。


伝道の書に「空の空。一切は空である」とある。

この言葉は、当時で考えうるすべての快楽を貪り尽くした、ソロモンが語った言葉だ。

彼はすべての欲を満たし尽くしたあと、「空の空」と言った。

彼は、神を除外した一切の快楽や富は、全て虚しいと証言したのだ。

やはり、欲を貪るだけの人生は空虚だ。


僕は今、普通の人生を歩んで、普通の幸せを得ている。
それに加えて、神をおそれ、神に従って生きようとしている。


これだけで十分じゃないか。
これ以上の幸せはどこにある。

ふつうはいいぞ?

人生の主役に専念しよう

「あなたは人生の主役です」という言葉の落とし穴

「あなたは人生の主役です!」

自己啓発系のブログや書籍を読むと、ほぼ必ず出てくるセリフである。
これは非常に魅力的なセリフであるし、なんだか本当にそんな気がしてくる。

しかしちょっとまってほしい。仮に主役は私だとして、脚本や演出は誰なのか。
自己啓発本などを読んでいると、どうも脚本や演出まで、主役がやることになっているようだ。

それはあまりにも、主役に多才さを求め過ぎではないか。

私が思うに、自己啓発本が絵に描いた餅である理由は、この点が考慮に入っていないからだと思う。

そのことに気が付かないで、自己啓発的思考によって、かえって挫折感を味わう人がどれほどいるだろうか。

このことを思うたびに、自己啓発的思考には多くの欠点がある事を認めざるをえない。

人生の脚本家や演出家は誰か

上記の議論に納得いただけたとして、次に問題となるのは、人生の脚本や演出を誰に頼むかである。

せっかく頼むなら、当然名の通った、それなりに評価が高い人が良い。

自分の好みを理解してくれて、自分が理想とする人生を作ってくれる人が良いに決まっている。

そういう思いが神格化され、体系化されたのが「宗教」である。

残念ながら、このような宗教に「キリスト教」が少なからず含まれていることを認めなくてはならない。

キリスト教史は、権力と富によって腐敗した教会の姿を何度も記録している。

私たちは、欲望が形となったようなものに、自分自身の人生の脚本を任せてよいのだろうか。

真の脚本家を探し出そう

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば見つかります。

マタイによる福音書 7章7節

それでは、真の脚本家を探し出すにはどうすればよいか。その答えは、上に引用した言葉のとおりである。

人生の価値は、自分の人生を導いてくれる存在によって決まると言って良い。
私たちは、そのような存在を熱心に探し求めることを要求されている。

これを誰にするかは、あなたが決めるべき事柄である。

しかし、私はその存在として、万物を創られた神という選択があることを伝えたい。

あなたは知っているだろうか。この天地宇宙を、そして人間をも創られた神を。

あなたは知っているだろうか。人間が神に背き、その身に罪を招き、その罪の結果が死である事を。

あなたは知っているだろうか。神はその罪を嘆き、罪の贖いのために、御子なるイエス・キリストを十字架につけられたことを。

あなたは知っているだろうか。そのイエスは復活し、そして天に昇られ、今も生きて私達のために祈ってくださっていることを。

あなたは知っているだろうか。このことを信じた私達のうちに聖霊が降り、私達が御子イエスと同じ性質に造り替えられつつあることを。

あなたは知っているだろうか。イエスはやがて地上に再臨され、この天地を裁かれる裁き主である事を。

あなたは...この神こそが、私達の人生の真の脚本家であることを知っているだろうか。


さあ、私たちは今日、岐路に立っている。神以外の何かに人生の脚本・演出を任せるか、神にすべてを任せるか。

繰り返すが、それを決めるのはあなただ。

聖書の神を人生のシナリオライターとして認め、人生における神の主権を認めようではないか。

そうすればあなたは、脚本や演出に時間を奪われることなく、主役を演じることに専念できるだろう。

人生は本来、そのように生きるべきではないだろうか。

Angel Beats!に見る救済論

かなり今更なような気がするが、Angel Beats!を久しぶりに見返して思ったことをメモ。

Angel Beats!とは、2010年4月から6月まで放送されたTVアニメである。原作・脚本はKey所属のシナリオライター麻枝准(まえだ じゅん)が手がけた。

キャッチコピーは「―神への復讐。その最前線」である。

物語は、死後の世界の学園を舞台として展開される。物語が進むに連れて、この学園には、生前報われない人生を送った人が来るらしいということがわかる。

主人公は、この学園に迷い込んだ「音無結弦」という一人の男性である。彼は気がついたとき、何かと戦っている少女の横にいた。

その少女いわく、戦っているのは「天使」と呼ばれる人物であって、彼女はこの世界の統治者、つまり神的な、あるいは神の代理人としての役割を持っているという。

つまり、生前理不尽な人生を送った彼女らは、死後の世界において「神への復讐」としての戦いを繰り広げていたのである。

はじめはこのことに懐疑的だった音無も、徐々に彼女らと打ち解け、行動を共にするようになる。

彼らは天使と戦いつつ日常を送っているうちに、何人かの親しい友人が、生前の無念を晴らし「消える」ことを経験する。

この経験を何度か繰り返すうちに、彼らはある一つのことに気づき始める。

「この世界は救済のための世界ではないか」

それに気がついた彼らは、天使と戦う以外の、新しい目的を見出していく。

そして、やがて学園世界においてそれぞれの無念を晴らした彼らは、一人また一人と消えていくのだった。

あらすじとしては、以上で十分だろう。

 

この物語のキーポイントは一つではないと思うが、私はやはり麻枝准なりの「救済論」が、Angel Beats!を読み解く上での一番のポイントではないかと思う。

輪廻転生とか、神的概念とかは、おそらく救済論を語るための仕掛けにすぎない。

 

彼(麻枝准)は、視聴者に対して、人生の素晴らしさを伝えたかったのだと思う。

 

確かに、生きていると、人生はなんと理不尽かと思うことが多々ある。それは自分の人生にも起こるし、親しい他人の人生にも起こるし、赤の他人にも起こる。

私自身、昔の友人が、先日病気でこの世を去ったということを耳にした。彼女は非常に優秀で、この先生きていれば様々な活躍が見込まれただろう。

これは主観的に考えれば、実に理不尽である。些か極端な話であるが、例えば殺人事件を起こしたような人が生きていて、なぜ彼女が死ななければならなかったのか。

 

この疑問は、本作のヒロインである仲村ゆりも口にしている。

彼女は良い姉であったが、強盗に妹二人を殺されて、自身も何らかの理由で、若くしてこの世を去ったのである。

彼女以外にも、主要な登場人物の死因と送ってきた人生は、とても理不尽なものである。

 

麻枝准は、このような理不尽な人生についての一つの答えを、この作品で示したのである。

それが天上での学園生活と、輪廻転生という死生観なのである。理不尽な人生を送った者には、死後青春をやり直す特権が与えられ、更に転生してまた人生をやり直すことができるのである。

これが、この作品の救済論だと思う。

 

さて、以上の議論を踏まえた上で、私はこの救済論についてどう思うかということを書き記したい。

個人的には、この救済論は好きだが、賛同できない。

 

これは私のキリスト教的価値観もあるけれども、一番の理由は、人間中心すぎる。

「神」というキーワードを持ち出してはいるものの、結局神という存在を否定して(これは作中でも、そのようなことをほのめかしている)、あくまで人間中心なのである。

「私」という存在が納得できる形としての理不尽さに対する説明が、この作品の根幹なのだと思う。

 

しかし、このような思想では、根本的な救済にはならない。理不尽さという不可解で納得できない現象を説明するには、どうしても絶対者としての神が必要なのではないか。

そのような神概念がないのが、日本人が書く作品の限界なのだと思う。

キリスト教圏の作品にはそのような根幹があり、日本人もそれを真似て書こうとするのだけれども、本質が理解できないから所詮は真似事で終わってしまう。

だから、「神」という言葉を持ち出して、「神」という存在が絶対者であるような文学作品が書けないのである。

 

以上が、Angel Beats!を読んで私が思った感想である。

 

まあ、今までの議論を台無しにするようだけど、天使ちゃんマジ天使ってことでこの作品の役割は十分果たしていると思う。

おわり。