ブログと言うか、自分のホームページか。
こっちのブログは、単に日常のことを適当に書いているだけだけど、もう一つのページは、もう少し自分の興味があることで
かつ、何年かあとに見て懐かしいと思えるものにしようと思った。
だから、よくある技術解説とか、レビューとかじゃなくて、技術に関して自分が思ったことを書く感じ。
例えばこんな感じで。
ぼちぼち書いていこうと思う。
ブログと言うか、自分のホームページか。
こっちのブログは、単に日常のことを適当に書いているだけだけど、もう一つのページは、もう少し自分の興味があることで
かつ、何年かあとに見て懐かしいと思えるものにしようと思った。
だから、よくある技術解説とか、レビューとかじゃなくて、技術に関して自分が思ったことを書く感じ。
例えばこんな感じで。
ぼちぼち書いていこうと思う。
今日は、妻と回転寿司に行ってきた。
回転寿司を考案した人は、本当にすごい。どうしたら、寿司を回してしまおうなんて思えるのだろうか。
今日から盆休みだけれども、今年の盆休みは少し特別だ。なんたって、結婚してはじめての長期休暇なのだから。
ふたりとも人混みは苦手なので、これと言ってなにか予定があるわけでもない。ただ、まだ手付かずの休日が
眼の前に何日も横たわっているという、その現実だけで心が躍る。
夫婦の日常というのは、回転寿司のようにいろいろな品が見えて面白い。
結婚してよかったと思う。
最近LGBT発言といい、相模原市の事件と言い、障害者を「社会的に役立つかどうか」の評価軸でしか考えられない人が多い。
結局の所、人が人に対する評価を行う上で、いわゆる生産性というか、社会への貢献度が占める割合は多い。無職に対する風当たりはきつい。
この評価軸は、障害の当事者や、その家族にも多かれ少なかれあると思う(あるというか、認めて容認せざるを得ないというか)。今の資本主義社会に生きているわけだから、社会システム的にそれはやむを得ない。
最近、行き詰まり感を常に覚えるような世の中だから、尚更仕方ない面もある。
これを前提にしたとしても、こういう考えを見聞きしたとき、僕が真っ先に言いたくなるのが、題名に書いた言葉だ。
障害は個性と言う言葉は、手垢にまみれててあまり好きではない。実情に合わない事も多い。
ただ、障害というのはその人の一部でしかないことを忘れてはいけない。精神障害だろうが知的障害だろうが、それは同じ。
私たちは、障害を持っている人を、その障害の症状と一般的に想像される人物像に当てはめてはいけないし、当事者も、障害によって自分を規定してはいけない。
それは、冒頭で話したように、社会に好都合か不都合かで人を評価するのと大して変わらない。
最近は特に、発達障害の知名度が上がってきて、誰でも自分を発達障害と疑うような状況になってきている。
かつての自分がそうだったように、発達障害であることを望むような心境にもなる。それが逃げ道となってしまう。
メビウス症候群だってそうだ。
私たちは、気を付けないといけない。知らず知らずのうちに、障害と社会的立場をリンクさせてしまわないように。
そう思う、今日この頃。
他人のこういう記事を見るのは好きだったけど、そういえば自分で書いたことなかったなと思って、少し書いてみることにしました。
現在は二台持ちです
ついこの前買いました。430 G5にはいろいろな種類・カスタマイズがありますが、僕のは
CPU | メモリ | HDD |
---|---|---|
Core i3 7100U | 8GB | 500GB HDD |
で
ここにあるLTEモデルを購入しました。SIMはb-mobileのおかわりSIMです。
LTEで外出先でもヒャッハーできると思ったんだけれども、LTEがつながらない問題が発生してしまいました。
妻に早く寝ろと急かされつつも格闘すること数時間、結局よくわからずにWindows Updateをひたすらやったあと、出社しても気がかりで仕方がなく、ふと思いついて
ここにあるLTE関連のドライバを片っ端からインストールしたり、デバイスマネージャーで一度デバイスを削除して、再起動したりしてるうちに直った。謎です。
もう何でしょうね。Windows10でLTEするには、乗り越えるべきハードルが多いらしいです。
無事につながったLTEですが、その後何度か休止状態から復旧すると、なぜか圏外と表示されて接続できない。もちろん、通信可能エリア範囲内です。
いろいろと調べてみると、どうやら「既定のAPN」が邪魔しているとのこと
解決!Windows10タブレットでAPN設定しても圏外のままなので「既定のAPN」をコマンドで削除 - QWERTY.WORK
Docomo回線なら問答無用でmoperaのAPNに接続しようとするあたり、MVMOユーザーを拒んでいるのではないかと思ってしまうくらいだ*1。
いろいろありましたが、今の所おかわりSIMで快適にLTE生活できています。
ぼろぼろなので写真は割愛。
この記事を書いている最中に、あんまりにも遅いので、Windows10からLubuntuに変えた。インストール方法はそのへんに転がってる。
64bitもインストールできるみたいだけど、とりあえず動作確認が他のブログで取れてる32bitを選択。無事インストールが完了し、とりあえず今の所問題なく動いてる。
32bitだとChrome動かなくて若干涙目だけど、まあFirefoxでもいいや。EmacsとTeXが動けばそれで良いのだ。
あと、別のところで言及されている、音が出るためのカーネルパッチは、この記事を書いてる時点ではダウンロードできない。
その他も色々と細かい不具合・不便な点があるが、とりあえずは今の所、やりたいことは概ねできている。
色々と書いたけど、僕の用途としては、Windows10よりはるかに良い。特に僕は、もう一つWindows10のメインノートを持ち運んでいるので、サブ機はLinuxでよいと言うか、Linuxの方が良い。
世の中すべてLinuxになればいいのに。
書いてみて改めて思ったけど、持ち運んでるモバイル機器が多すぎる気がする。やはりオタクだ。
以上
*1:もちろんこれは誤解で、単純に考えてキャリアユーザーにとって使いやすい設計にしているのだろう
山上の垂訓について、気になったのでいろいろな解説を調べてみた。
この箇所は、多分神学的立場の違いによって、だいぶ解釈が異なると思う。
山上の垂訓の講話の内容を表すのに適切なタイトルは何なのか?それは、「メシアによる律法の義の解釈」と言えるだろう。
このサイトの信仰告白のページでは
字義通りの解釈:聖書の解釈は、字義通りの解釈を一貫して採用しており、そのゴールは著者の意図を正確に読み取ることにあります。それゆえに、聖書の記録と現代の私たちとの間に、地理的・文化的・時間的隔たりがあることを考慮し、ユダヤ的視点で読み・解釈することを重要視します。
との信条を掲げており、いわゆるディスペンセーション主義のようだ。ハーベストタイム・ミニストリーズとほぼ同じ立場だと思う。
次に出てくるのは、エホバの証人のページだった。
エホバの証人のページは、山上の垂訓を単なる道徳律程度に説明している*1。それにしても、エホバの証人のWebサイトのユーザビリティは非常に良い。我々もここは見習うべきだ。
山上の垂訓を一文章で要約するとしたら、このようになるでしょう。 :偽善から解放されて、愛と恵みにあふれ、知恵と識別力に満ちた、神にささげる、神に喜ばれる生活をするにはどうするか。
True Arkよりふわっとした解釈ではあるけれども、旧約時代の律法の再解釈というよりは、新約時代を生きるクリスチャンの人生訓のような受け取り方か。
本文批評も多くあったが、この山上の垂訓について高等批評を行っているサイトも多く見られた。
大きく分けて3通りの解釈があった。この箇所は、本当に人によって解釈が異なるようだ。
*1:時々、サタンが率いる「邪悪な天使に苦しめられている人たち」も助けます。なんて妙な表現も出てくるが
今日は車検に行ってきた。
車検だけならどこでもできるのだけれど、僕の場合は車を買った場所で、二年分の車検代を前払いしているので、そこに行かないといけない。
その場所は、少し遠い。
そういうわけで、今日はちょっとした旅行のようなものだった(そういえば、まだ新婚旅行に行っていない。そのうちどこかに行きたい)。
今回の車検は、いろいろと交換が必要だった。なかなかの出費である。
とりあえず今日は疲れたので、早く休むことにしよう。
クラフトというフォークソンググループの曲に、僕にまかせてください という曲がある。
この曲、ぜひ歌詞を味わって聴いてもらいたい曲なんです。
この曲はさだまさしの作詞作曲なんだけど、なんというか、グレープ時代のさだまさしの魅力をそのまま表現したような曲で、非常に良い。
やはり人間というものは、年を取ってくると価値観も変わるもので、70年代から90年代の曲と2000年代の曲とでは、歌っているテーマが全然違うのだ。
どちらが良いかというのは人の好みなので、それはそれとして置いておくが、僕は80年代くらいのさだが一番好きだ。
最近はどちらかというと、歌詞に余韻を持たせないというか、非常にストレートでメッセージ性の強い曲が多いように思う。そういう曲は作詞者の好みに合わない人を全く退けてしまうので、非常にもったいないような気がする。
僕は絵画はよくわからないが、写実画と抽象画との対比と似ているかもしれない。
さて、前置きが長くなった。
この曲の良いところは、固有名詞があまり出てこないのに、情景を容易に思い浮かべることができる点だと思う。
僕ときみの関係性も明記してないし(婚約者だとはすぐに分かるけど)、場所も鮮明じゃない(まあ、墓と言えば山奥のちょっと高いところにあるけど)。わかってるのは、季節が秋ということくらいだ(彼岸の前なので)。
ここまで短い歌詞で、情景を描写できるのは素晴らしい。
まあ、もちろんこれは日本人が持っている共通認識が背景にあるわけで、それを前提としている限りは、日本人以外には伝わらないという脆弱性を持っているとも言える。
最近は一般でもキリスト教界でも、脱日本的な動きがよく見られるようになった。確かに日本的なやり方には色々な問題があるし、課題もあると思う。
けれども、私たちが日本人である以上、日本的な物を排除することが果たして可能なんだろうか。仮にそれを成し遂げたとして、日本的な性質を打ち捨てた日本人というのは、一体何なのだろうか。
今、ふつう日本的というと、戦前・戦中、もっとさかのぼると、徳川時代のような全体主義的な風潮を思い浮かべる。
しかしながら、本来的な日本文化というのは、そんな全体主義的な物ではなく、もっと個人主義的な物ではなかったかと思う。
最近は、それを少しずつ取り戻しているのかなと思ってる。
話が脱線しすぎた。
この曲自体は、結婚前の男の決意というか、意気込みをさりげなく歌った曲だと思う。僕はさすがに、僕にまかせてくださいとは言えないけど、そんなふうに言ってみたいものだな。