Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

健康増進型保険に入ってみる

お世話になっている某保険会社の外交員の方から、Vitalityという健康増進型保険の勧誘を受けた。保険の詳細は以下の通り。

www.nikkei.com

この保険は、健康に良いこと(運動とか、野菜食べるとか)をすればするほど保険料が割り引かれるという、なんだかゲームみたいな保険だ。

契約内容を見てもそう悪いものには見えなかったし、ウェアラブルバイスと連携するあたりがなかなか面白そうに思えたのと、妻にウェアラブルバイスの購入を納得してもらう口実にもなりそうだったので、契約する方向で話を進めている。

まあ、健康増進型保険は日本初の試みらしいし、コケて早々に撤退するかもしれない。それでも、ただ単に保険を契約するよりは面白いので、今後に期待している。

新しいものは好きなので。

他人の価値観

僕は以前、学生時代に、他人の価値観をそのまま受け入れて、それに従おうとしてしまった事がある。

他人の価値観を無批判に受容し、自分に適用するという行為は、やはり自分自身を殺すにほかならない。
これはしてはならない。

人の価値観というのは、その人自身の経験とか、育ってきた生育歴に依存する。
そんなものを他の人に押し付けたりするのは、あまりにも乱暴だ。

提示された価値観に従うというのは、ある意味お手軽である。
でも、その決断は、この先何十年の人生を非常に過ごしにくいものに変えてしまうかもしれない。

休日出勤

今日は休日出勤だった。職場のレイアウト変更の手伝いだ。

誰も居ない職場に行くと、視野が広がるというか、仕事に取りかかる際の気持ちの持ち方を再考できる気がして良い。

仕事に必死になっていると、大切な物を見失ってしまう気がする。かといって、適当にやるわけにもいかない。丁度良いのは、必死と適当の間なのだろう。

何を目安にできるかは分からないけど、少なくとも趣味をサボりがちになったら、余裕がなくなってきた証拠なのかもしれない。

こんなことを書けるのは余裕があるときだけで、すぐに余裕がなくなって、ブログを放置するんだろうな。

バランス良くいきたいものだ。

寂しい気持ち

趣味に夢中になってたら、妻に寂しいと言われてしまった。

夫婦にすれ違いがあり寂しいと言うのは、よく聞く話だ。
結婚する前はそんなことあり得ないと思っていたが、こうも早く言われるとは。

男女は、脳の構造が違うという。
これも、結構大きなすれ違いの原因かもしれない。

すれ違いが悪いというわけではないが、これを放置すると多分だめだ。
かといって、理由を問い詰めるのも、やっぱり違うのだろう。

結婚する前に、夫婦関係は二人で進めて行ってもうまくいかないと、牧師から何度も言われた。
夫婦関係は妻と夫、それに二人を引き合わせた神様、イエス様の三人三脚でこそうまくいくと。

一般的に、なんでも自分で決めれるのが強い人であるが、聖書はこの逆を説く。
自分が弱いことを知り、神に寄り頼む時こそ、本当の強さが発揮されるのだ。

ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

第二コリント12:9

こんなことは、面と向かって妻には言えないなと思う。これも弱さというか、意気地なしというか。

このブログには、こういう自分の「ありのまま」を書いてみようと思う。
文章にして置いておけば、それもできそうな気がする。

ブログを更新した

ブログと言うか、自分のホームページか。

こっちのブログは、単に日常のことを適当に書いているだけだけど、もう一つのページは、もう少し自分の興味があることで
かつ、何年かあとに見て懐かしいと思えるものにしようと思った。

だから、よくある技術解説とか、レビューとかじゃなくて、技術に関して自分が思ったことを書く感じ。

PS4購入 – Joy to the World

例えばこんな感じで。

ぼちぼち書いていこうと思う。

回転寿司

今日は、妻と回転寿司に行ってきた。

回転寿司を考案した人は、本当にすごい。どうしたら、寿司を回してしまおうなんて思えるのだろうか。

今日から盆休みだけれども、今年の盆休みは少し特別だ。なんたって、結婚してはじめての長期休暇なのだから。

ふたりとも人混みは苦手なので、これと言ってなにか予定があるわけでもない。ただ、まだ手付かずの休日が
眼の前に何日も横たわっているという、その現実だけで心が躍る。

夫婦の日常というのは、回転寿司のようにいろいろな品が見えて面白い。

結婚してよかったと思う。

障害は社会的立場じゃないんだが

最近LGBT発言といい、相模原市の事件と言い、障害者を「社会的に役立つかどうか」の評価軸でしか考えられない人が多い。

結局の所、人が人に対する評価を行う上で、いわゆる生産性というか、社会への貢献度が占める割合は多い。無職に対する風当たりはきつい。

この評価軸は、障害の当事者や、その家族にも多かれ少なかれあると思う(あるというか、認めて容認せざるを得ないというか)。今の資本主義社会に生きているわけだから、社会システム的にそれはやむを得ない。

最近、行き詰まり感を常に覚えるような世の中だから、尚更仕方ない面もある。

 

これを前提にしたとしても、こういう考えを見聞きしたとき、僕が真っ先に言いたくなるのが、題名に書いた言葉だ。

 

障害は個性と言う言葉は、手垢にまみれててあまり好きではない。実情に合わない事も多い。

ただ、障害というのはその人の一部でしかないことを忘れてはいけない。精神障害だろうが知的障害だろうが、それは同じ。

私たちは、障害を持っている人を、その障害の症状と一般的に想像される人物像に当てはめてはいけないし、当事者も、障害によって自分を規定してはいけない。

それは、冒頭で話したように、社会に好都合か不都合かで人を評価するのと大して変わらない。

最近は特に、発達障害知名度が上がってきて、誰でも自分を発達障害と疑うような状況になってきている。

かつての自分がそうだったように、発達障害であることを望むような心境にもなる。それが逃げ道となってしまう。

メビウス症候群だってそうだ。

私たちは、気を付けないといけない。知らず知らずのうちに、障害と社会的立場をリンクさせてしまわないように。

そう思う、今日この頃。