Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

幸いな人

皆さんは、どんな人が幸いだと思うでしょうか。

私は高専出身で、根っからの技術好きなので、その技術を使って、世界で活躍することが「幸いだ」と考えていました。

確かに、それは幸せかもしれません。若い私たちは、成功を求めるし、成功することこそが人生のゴールだと考えます。

 

このような人たちにとって、死ぬ間際のことなど想像もつきません。明日もあさっても、その次も、10年後も生きてることが当たり前だと思うし、それが一番信じやすい未来だからです。

 

ところが、人生何十年か生きてると、時々どうもそうでないように思える時が、誰にでも訪れます。

今、そのような状況に置かれている人も、きっと居るでしょう。

 

このような人たちに、僕は、聖書が啓示する「幸いな人」の定義を伝えたい。

詩篇32篇の冒頭を見てみましょう。

「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。」
‭‭詩篇‬ ‭32:1-2‬ ‭JA1955‬‬

詩篇32篇は、ダビデが詠んだとされる詩篇です。彼は王として、絶頂期のイスラエルを統治した人物でありましたが、実は大きな罪を抱えていました。

それは、部下であるウリヤの妻、バテシェバと姦淫を犯し、しかもそれを隠すために、ウリヤを前線に出して戦死させたのです。

今、政治家の不倫問題が相次いで報道されていますが、不倫どころの話ではない、もっと大きな罪を、彼は犯したのです。

 

これが日本なら、バレなければ良いじゃないかと思う方もおられるかもしれません。

でも、彼は天地創造の神を知り、その方が正義そのものであられる事をよく知っていました。なぜなら、神はイスラエルに対して、ご自身のご性質を、あらゆる方法で伝えていたからです。

 

そんな彼の所に、ある日預言者ナタンがやってきて、彼の罪を、巧みなたとえ話を用いて言い当てました。

この事を聞いたとき、ダビデはすぐに認め、悔い改めて赦しを得ました。先に挙げた詩篇は、おそらくその時期に詠まれた物だと考えられています。

 

つまり、彼は、自分が赦された事に対して、幸いだと語っているのです。

 

では、聖書が啓示する赦される方法何でしょうか。

 

それは、端的に言えば、イエスキリストが私たちの罪のために十字架で死に、葬られ、三日目によみがえり、天に昇り、今も生きて私たちのためにとりなしの祈りをしてくださっているということを信じることです。

ほとんどの人にとって、これは信じがたい事だと思います。また、別世界の話だと思うことでしょう。

私も5年ほど前、教会に初めて行ったときはそうでした。

しかしながら、不思議な導きで信じたあと、信仰を持ったことに後悔したことは、一度もありません。

あなたも、明日、教会の門を叩いてみませんか。それはあなたにとって、幸いな事だと確信しています。

 

人生の主役に専念しよう

「あなたは人生の主役です」という言葉の落とし穴

「あなたは人生の主役です!」

自己啓発系のブログや書籍を読むと、ほぼ必ず出てくるセリフである。
これは非常に魅力的なセリフであるし、なんだか本当にそんな気がしてくる。

しかしちょっとまってほしい。仮に主役は私だとして、脚本や演出は誰なのか。
自己啓発本などを読んでいると、どうも脚本や演出まで、主役がやることになっているようだ。

それはあまりにも、主役に多才さを求め過ぎではないか。

私が思うに、自己啓発本が絵に描いた餅である理由は、この点が考慮に入っていないからだと思う。

そのことに気が付かないで、自己啓発的思考によって、かえって挫折感を味わう人がどれほどいるだろうか。

このことを思うたびに、自己啓発的思考には多くの欠点がある事を認めざるをえない。

人生の脚本家や演出家は誰か

上記の議論に納得いただけたとして、次に問題となるのは、人生の脚本や演出を誰に頼むかである。

せっかく頼むなら、当然名の通った、それなりに評価が高い人が良い。

自分の好みを理解してくれて、自分が理想とする人生を作ってくれる人が良いに決まっている。

そういう思いが神格化され、体系化されたのが「宗教」である。

残念ながら、このような宗教に「キリスト教」が少なからず含まれていることを認めなくてはならない。

キリスト教史は、権力と富によって腐敗した教会の姿を何度も記録している。

私たちは、欲望が形となったようなものに、自分自身の人生の脚本を任せてよいのだろうか。

真の脚本家を探し出そう

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば見つかります。

マタイによる福音書 7章7節

それでは、真の脚本家を探し出すにはどうすればよいか。その答えは、上に引用した言葉のとおりである。

人生の価値は、自分の人生を導いてくれる存在によって決まると言って良い。
私たちは、そのような存在を熱心に探し求めることを要求されている。

これを誰にするかは、あなたが決めるべき事柄である。

しかし、私はその存在として、万物を創られた神という選択があることを伝えたい。

あなたは知っているだろうか。この天地宇宙を、そして人間をも創られた神を。

あなたは知っているだろうか。人間が神に背き、その身に罪を招き、その罪の結果が死である事を。

あなたは知っているだろうか。神はその罪を嘆き、罪の贖いのために、御子なるイエス・キリストを十字架につけられたことを。

あなたは知っているだろうか。そのイエスは復活し、そして天に昇られ、今も生きて私達のために祈ってくださっていることを。

あなたは知っているだろうか。このことを信じた私達のうちに聖霊が降り、私達が御子イエスと同じ性質に造り替えられつつあることを。

あなたは知っているだろうか。イエスはやがて地上に再臨され、この天地を裁かれる裁き主である事を。

あなたは...この神こそが、私達の人生の真の脚本家であることを知っているだろうか。


さあ、私たちは今日、岐路に立っている。神以外の何かに人生の脚本・演出を任せるか、神にすべてを任せるか。

繰り返すが、それを決めるのはあなただ。

聖書の神を人生のシナリオライターとして認め、人生における神の主権を認めようではないか。

そうすればあなたは、脚本や演出に時間を奪われることなく、主役を演じることに専念できるだろう。

人生は本来、そのように生きるべきではないだろうか。

永遠の命の再発見

永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。

ヨハネ 17:3

わたしは今まで、なんと「永遠の命」という概念を誤解していたことだろうか。

今まで、それはまるで何か「物」であるとか、「精神の状態」であるように考えていた。

しかしながら、本当の「永遠の命」とは、イエスキリストとの人格的な交わりなのである。

 

従って、永遠の命が、修行や善行によって得られるのではないということは、あまりにも自明である。

今まで、どれほどこんな簡単な真理を知らなかったのだろうか。悟らなかったのだろうか。

まさに、パウロの言うように、知っていると思っていながら、知るべき事さえも知っていなかったのである。

 

今まで、どれほど神様との交わりを避けてきただろう。

それによって、主はどれほど悲しまれただろう。

 

ああ主よ。この無知なわたしをおゆるしください。

そして、今からこの、イエスキリストとの生きた交わりに、わたしも加えてください。

 

我が主よ。わたしは、あなたを愛します。

ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい

中心聖句

ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」

使徒行伝 3:6 口語訳

背景

時代

ペンテコステにて教会が誕生した後しばらくした頃

地理的情報

エルサレムの神殿にある、「美しの門」と呼ばれる門のあたり。地理的には、神殿の東門 *1

当時の状況

イエスという、律法学者やパリサイ人など当時の宗教的指導者にとっては、文字通り「目の敵」だった人物をやっと十字架で始末できた。

しかし、イエスの弟子だった者たちは「イエスは復活した」という教えを述べ伝えはじめ、その教えを信じる信者が続々と現れた。

いったい、この教えは何なのか。また、彼らはいったい何の権威によってそのことを述べ伝えているのか*2。このことは、ユダヤ当局者にとって大きな問題であった*3

登場人物

ペテロとヨハネ

彼らは、初代教会の中心的なメンバーであった。おそらく、ペンテコステの出来事を経験し、霊的に強い確信と信仰を得ていたものと思われる。

生まれながら足のきかない男

彼は生まれつき足が動かず、仕事をすることができなかった*4

そのため、毎日美しの門の所に座って、施しを求めていた。おそらく、ここが一番施しが受けやすい場所だったのだろう。

本文解釈

金銀はわたしには無い

初代教会では、信者はそれぞれの財産や食料を持ち寄り、それらを共有していた。それ故に、ペテロやヨハネが自由に使える財産は無かった。

わたしにあるものをあげよう

ペテロやヨハネは、聖霊を受けていた。

ナザレ人イエス・キリストの名によって

聖書における「名前」の意味

聖書において、名前はそれを指す対象の、本質や権威を含めて用いられている。つまり、「ナザレ人イエス・キリストの名」とは、ナザレ人イエス・キリストの本質と権威を表している。

ナザレ人イエスの意味

これは、地上生涯を送られた「人間イエス」としての性質と権威を含んでいる。イエスは、ユダヤ人として当然守るべきモーセの律法と様々の規定を守り、何一つ欠点がなかった。

イエス・キリストの意味

キリストイエスとも言い換えることができる。キリストは、「救世主」を指すギリシャ語である。すなわち、この言葉は「救い主なるイエス」と読み替えることができる。

救い主であるとは、すなわち神である。

この箇所のポイント

本質的な問題を解決した

ここでもし、ペテロやヨハネが施しを与えていたら、彼はそれからも施しを受け続ける人生であった。それは本質的な解決にはならず、単に依存関係を構築しただけである。

彼は足が動くことによって、自分で糧を得る事ができるようになり、主体性を持って人生を歩けるようになった。

ただし、万人にとって、必ずしも身体的障害が根本問題でない可能性がある。この箇所のみを引用して、イエスの御名によって祈れば、すべての病気が治ると期待するのは危険であるし、非現実的である。

御名の権威

ペテロやヨハネは、聖霊を受ける事によって、御名の権威によって命ずる事ができるようになった。

私たちが祈るときも、「イエス様の御名によって祈ります」と口では発音しているが、果たして本気で信じているだろうか。

聖霊によって、私たちは神の御名の権威を媒介する、媒体となる事ができる。これは何たる特権であろうか。

私たちへの適用

本質的な問題を見抜く力

私たちは、日々いろいろな問題や課題に遭遇したり、相談されることがある。そういうとき、もちろん祈れば良いのだけれども、どう祈れば良いのだろうか。

単純に「こう祈ってほしい」とか、「これが問題だ」と言われたとおりに祈るのは簡単だ。しかし、それが的外れな祈りだとしたら、「祈ったとおりにならない」という話になる。

そうすると、祈る方も祈られる方も、あまりいい影響は受けないのではないか。もちろん、祈りの過程で神様によって修正される事もあるとは思うが。

私たちクリスチャンには、本質的な問題を見抜く力が必要である。場当たり的な祈りではなく、確信を突いた祈りの方が良い。

そうするためには、ますます私たちが「聖霊が働くための、純粋な媒体」となる必要がある。「自分の思い込み」という不純物を取り除き、純粋に神からの語りかけを聞く姿勢が必要である。

権威に対する正しい自覚

我々は、しばしば他人によって付与されている権威を、自分の力だと勘違いする傾向がある。

これは歴史的事実か分からないが、トマス・アクィナスという哲学者で神学者であった男が、時のローマ教皇クレメンス4世を訪ねた。

時は中世ヨーロッパで、カトリック教会が莫大な富を蓄えていた時期である*5

ローマ教皇は、彼に「初代教会では『金銀はない』と言ったが、今の教会では『金銀はない』とは言えなくなった(それほど裕福になった)」と語ったと言われている。

それに対して、トマス・アクィナスは「その通りだが、今では『イエスキリストの名によって歩きなさい』とは言えなくなった」と答えた。

この話は、非常に皮肉的であるが、私たちに大きな問題を投げかける話でもある。

「祈ったとおりになった」という体験や証は、それ自体非常に良い物であるし、神の力をわかりやすく伝える手段だと思う。今日の箇所の出来事も、すぐにエルサレム中で話題になっただろう。

しかし、単にそれを以て「伝道できた」と思うのは、浅はかではないだろうか。

私たちは、イエスキリストの権威を付与された者として、それを行使する事ができる。ただ、行使した後、神に栄光を帰す事を忘れてはならない。

あくまで、私たちは「通り良き管」となる事に専念すべきではないだろうか。

*1: 牧師の書斎, "5. 「美しの門」であかしされたイエスの御名の力", http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?美しの門であかしされたイエスの御名の力

*2:すでに死んだ者には、権威などはない。「神の御名によって」と言えば権威があるが、「モーセの権威によって」と言ったところで、何の意味もない。

*3: 使徒行伝 4:6

*4: 古代ローマにも知的労働はあったかも知れないが、属国で田舎であるユダヤでは、肉体労働以外に選択肢は無かったと思われる。

*5: 筆者個人に、現代のローマカトリック教会を批判する意図はない。ただ、プロテスタントの流れに属する故に、教理上での疑問点や相違点は当然ある。

自由について考えよう

今日からゴールデンウィークですね。この投稿を読んでいる方の大多数は、そうだと思います。

それらの人は、何らかの組織に属していて、普段はそこで社会生活を送っていると思います。もちろん私も、会社に属して、日々会社員をしております。

そういう人にとって、ゴールデンウィークというのは、滅多にない「自由時間の塊」だと思います。普段時間に縛られて生活している人々も、休みは自由に過ごせるはずです。

 

ところで、この文章でも「自由」と呼ばれる概念を、至極当たり前の共通認識として用いていますが、実際の所、自由とは何なのでしょう。

時間の自由が与えられているので、せっかくですから、自由について考えようではありませんか。

今回は、自由について考える手法として、「自由」という言葉を多角的、つまり様々な角度から見ていくことにします。

日本語の持つ「自由」の意味合い

いきなり主観的な議論で申し訳ないのですが、まずは、「自由」という言葉の一般的な語感について考えてみましょう。

私たちは普段、自由という言葉に対して、二通りの印象を持つと思います。

一つは束縛されないという印象で、もう一つは「勝手気まま」という印象です。

たとえば、冒頭で用いた「休みは自由だ」という言葉は、「会社の束縛がない」という意味で用いられています。

何時に起きても、何時に寝ても、仕事をしてもしなくても、誰も何も言いません。それが「束縛がない」という意味での自由です。

かといって、たとえば人を殺したり、物を盗んだりして罪に問われたとき、「私には自由がある」と主張したとしても、それは認められません。

それは「勝手気まま」な自由なのです。これを認めてしまうと、「汚物は消毒だ−!」の世界になってしまいます。世紀末ですね。

日本語の元々の意味は、後者の「勝手気まま」であったと言われています。しかし、明治時代に福沢諭吉が、英語の "Freedom" や "Liberty"の訳語として「自由」を用いたこと*1から、「自由」がこのような複雑な意味となってしまったのです。

「自由」と訳された英語について -法学的立場で考える-

それでは、更に「自由」について考えるために、英語の意味と、それが持つ法学的意味について考えてみましょう。

英語の意味を知るには、英英辞典が便利です。そういうわけで、今回はLongman英英辞典のWeb版*2を用いてみました。

free‧dom
 
1 [uncountable and countable] the right to do what you want without being controlled or restricted by anyone

 

 まずは、freedomです。何となく日本語訳すると「何者からも、制限または抑制されることなく、やりたいことをする権利」と訳せると思います。

lib‧er‧ty plural liberties
 
1

freedom

 [uncountable] the freedom and the right to do whatever you want without asking permission or being afraid of authority:

 

 次は、Libertyです。これも何となく日本語訳すると「freedomで、権威を恐れたり、許可を問うたりすることなく、したいことは何でもできる権利」と訳せると思います。

さて、両者の間における絶対的な違いは、「何らかの共通する道徳・倫理基準があるかどうか」だと思います。

freedomという言葉には、共通の基準、つまり法があることを想定していません。集団に存在する法は、個々人の良心か、権力者の意志です。

これは法学で言う、いわゆる「自然状態」における自由を示していると考えられます*3

それに対して、Libertyは、「社会状態」における自由であると考えられます。Libertyが想定する集団には何らかの共通した法があると思います。その上で、freedomな状態がLibertyなのです。

真の自由とは何か

さて、これまで「自由」という言葉が持つ意味合いについて論じてきました。

自由には、freedomのような意味もあるし、libertyのような意味もあると分かっていただけたと思います。

ところで、あなたにとっての「自由」とは何でしょうか。やりたいことをやりたいだけすることでしょうか。

実は、聖書の中にそれを「言葉通り」実行した人物、ソロモンが登場します。彼は、莫大な富を持ち、栄華を極めた生活を送っていました。

まさにfreedomです。

そんな彼ですが、「伝道者の書」と呼ばれる書で、このように告白しています。

空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。

伝道者の書 1:2〜3

彼はまさにfreedomの絶頂で「すべては空である」と証言したのです。彼には、何かが足らなかったのです。欠乏感があったのです。

彼の生活には、創造主なる神の存在が無かったのです。それこそが聖書が語る「罪」であり、彼の欠乏の原因だったのです。

さて、ソロモンの言葉に対して、新約時代に活躍したパウロと呼ばれる伝道者が、このような言葉を遺しています。

わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。

ピリピ 8:11

実は、この言葉は、獄中から書かれた手紙の中で語られた言葉です。

彼はfreedomも無ければ、Libertyさえもなかったのです。そのような状況で、彼は「どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」というのです。

彼をそうさせた力は、どこから来たのでしょうか。11節のすぐ後ろで、パウロ自らが語っています。

わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。 

ピリピ 8:12-13

「わたしを強くして下さるかた」とは、イエスキリストです。

キリストは、私たちが罪から解放され、真の自由を得るために十字架で身代わりとなって死んでくださり、復活して罪に打ち勝ってくださったのです。

あなたも、この救い主なるイエスキリストを信じて、真の自由を得てみませんか?

そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。

ヨハネ 8:32

長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。

皆さんに、神様の祝福がありますように。 

*1:冨田宏治 「欲望」「権力」「自由」の思想史 西欧「近代」と日本「近代」 

http://homepage3.nifty.com/k_tomida/sisosi02.htm

*2:Longman English Dictionary Online

http://www.ldoceonline.com

*3:専門ではないので、間違ってたら教えてください

夢を語ろう

『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。

使徒行伝 2:17

こんにちは。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

熊本地震の件、常にお祈りしています。

その中で、示されたことと言うか、自分の使命を感じたことがあったので、思うままに書いてみようと思います。

今月14日に起きた熊本地震で、多くの人が避難生活を余儀なくされています。 その中には、お年寄りや身体障害者の方、あるいはお子さんなど「弱者として認識される人」も居れば、見た目は普通でも、何らかの困難を抱えておられる方も居ます。

ある人は、統合失調症などの精神疾患を患っているかもしれません。ある人は、自閉症スペクトラムの傾向があるかもしれません。

東日本大震災では、このような「見えない障害」を持っておられる方々が、避難生活において様々な不利益を被ったことが報告されています*1

本来、真っ先に支援を受ける必要がある方々が、十分な支援を受けることができないばかりか、肩身の狭い思いをする。それが、今の現状なのです。

 私は、この状況に対して、非常な危機感を持っています。

 

ところで、このような現状にある原因は何でしょうか。私は、障害、特に見えない障害に対する理解不足ではないかと思います。

 

残念ながら、多くのキリスト教会も、未だにこのような傾向があることを認めざるを得ません。

本来、救いを求めて来るはずである教会が、いつの間にか「現代の律法主*2」で固められてしまい、「弱者お断り」となってしまう。

表だっては言わないにしても、精神疾患が治らないのは「信仰が薄いから」だとか、発達障害の傾向がある人が普通に振る舞えないのは「我慢が足りないから」だとか、そんな雰囲気がどこかにあるのではと思います。

このような雰囲気は、世界全体から早々に消え去るべきだとは思います。

しかし、まずはキリスト教会から、このような雰囲気を消し去るべきです。

 

それを実行するには、どうすればいいでしょうか。牧師が頑張ればいいのでしょうか。

従来型の教会というのは、牧師が羊飼いで、信徒が羊でした。羊飼いは羊にサービスをして、羊もそれが当たり前のように、牧師の献身的なサービスを受け続けて来ました。

ところが今、日本のキリスト教界では、牧師不足と信徒の少子高齢化が叫ばれています。

神様は日本を見捨てたのではないか。そう思う方も、もしかしたら居られるかも知れません。

しかし、私は今の状況こそ、神様が与えられた「日本のキリスト教界が変わるチャンス」だと思っています。

 

これからは、信徒一人一人が聖書を真剣に学ぶことによって、「牧師が何と言っているか」ではなく、「イエスキリスト、神は何と言っておられるか」に焦点を合わせる必要があると思います*3

イエス様は、障害について何と言っているか。災害について何と言っているか。神様の御心はどこにあるのか。それらを、私たちは真剣に学び、感じ取る必要があるのです。

旧約聖書に、似たような話があります。エズラという学者の話です。

バビロン捕囚の後、神の民を再度正しい方向に導いたエズラは、律法に精通した学者でした。

エルサレムの民は、エズラが帰還する50年ほど前に神殿を完成させ、その時は信仰に満ちあふれていました。しかし、彼らには一時的な気持ちの高揚しか無く、持続的な信仰を持つ手段がありませんでした。

そこで活躍したのが、エズラでした。彼は民にモーセの律法を教え、信仰のあり方を教育したのです。

「神殿の完成」という一大イベントに比べれば、律法の書を延々と教育するということは、一見地味で非効率的な印象を持たれるかもしれません。

しかし、それは時にかなった手段でした。彼らは律法を真剣に学び、リバイバルが起こったのです。

私の夢は、ここにあります。私は信徒として、聖書のこと、障害のこと等を語り続け、キリスト教界内外に、エズラの時のような霊的覚醒が引き起こされることを夢見ています。

幸いな事に、今は情報を発信する手段がいくらでもあります。ブログ、SNS電子書籍...。それらを活用すれば、読んでくれる人は少ないかもしれないけれども、情報を発信することができます。

だから、私は情報を発信し続けたい。

たとえすぐに結果が出なくても、どこかの誰かが、少しでも良い恵みを受けられることを夢見て、情報を発信し続けたい。

私には、夢がある。

*1:内閣府 第32回障がい者制度改革推進会議 議事録 

http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/kaikaku/s_kaigi/k_32/pdf/s1-2.pdf

*2:イエス時代の律法主義者のような、「クリスチャンはこうあらねばならないといった主義思想」

*3:少々大胆に書きましたが、牧師先生の存在は非常に大きいと思っています。牧者の導きが無ければ、私たちはStray Sheepです。

見ないで信じる者は幸いである

証明できない物は信じない。

多くの人が、こういった思想を持っている。

この思想は、近代的な科学万能主義による弊害であると思われがちだけれども、二千年前に生きた、あるユダヤ人も同じ考えを持っていた。

それが、イエスの十二弟子の一人、トマスだ。

彼は三年半イエスと共に寝食を共にし、イエスの奇跡や教えを聞いていながらも、イエスの復活という事実を信じられなかった。

彼を説得しようと、すでに復活のイエスに出会った弟子たちが、実に八日間もかけて彼を説得しようと試みた。しかし、彼はあくまで、自分の目で確かめないと信じないと言い張ったのである。

そんな彼の前に、ついに復活のイエスが現れた。イエスを見た彼は言葉を失い、「わが主、わが神!」とただただ礼拝するのみだった。彼はイエスを見た瞬間、打ち傷に触ることも、刺し通された穴に指を差し入れる事も不必要になったのだ。

この話を信じるかどうかは、あなたに委ねられている。

無理して信じる必要は無い。もしあなたが信じたいと願うなら、神様はあなたに聖霊を与えてくださり、信じられるように変えてくださる。

私たちは、イエスを目で見ることはできない。それでも、私たちはイエスが今も生きていて、私たちのために祈っていてくださることを信じる。

今も、あなたのそばでイエスが「見ないで信じる者は幸いである」と語りかけている。今日、その声に応答し「信じることができるようにしてください」とあなたが祈ったとき、神であるイエスご自身から、あなたに語りかけてくださる。

さあ、共にイエスの復活を「見ないで信じる」者となり、神である主に信頼して歩む人間になろうではないか。