さて、今日は「不安」についてお話ししましょう。
私は、時々不安になります。特に仕事ではそうですね。
今の仕事は、納期がしっかりと決まっていて、それまでに仕事を終わらせる必要があります。そして何故か、その納期までに仕事を終わらせるようにチームを導くのが、私の仕事のようです。
そういうわけで、私の仕事は、ある意味で不安との闘いのようなものです。今日のように早く帰れても、心の中で「こんなに早く帰って良いのかなぁ」と思ってしまうことがあります。
不安というのは、大きく分けて二つあるのではないかと思います。一つは、私のように「明日・明後日のことが大丈夫だろうか」と考える不安であり、もう一つは「この先どうなるんだろうか」という、漠然とした不安です。
この文章を読んでくださっている方も不安を抱えていらっしゃると思いますが、どちらの不安でしょうか。あるいは、どちらもでしょうか。
どちらの不安に対しても、聖書の有名なこの箇所が思い浮かびます。
「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
マタイ6:34
この聖句は、イエス様の「山上の垂訓」と言われているメッセージで、神ご自身から旧約時代の律法を再度説明して下さったものです。形式的な律法主義に陥っていたイスラエルの民に対して、律法が持つ本来の意味を説いた箇所です。
この言葉は有名すぎて、色々な一般書籍で引用されています。芥川龍之介なんかは、「一日の労苦」などという随筆を遺しているくらいです。
しかし、芥川はご存じの通り自ら命を絶ってしまいます。「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉を遺して。
確かに、芥川は文語訳のマタイ伝を読んだはずです。彼は、聖書をよく読んだそうです。
これはどういうことでしょうか。聖書の言葉には力がなかったのでしょうか。
絶対にそんなことはありません(パウロっぽく書いてみました)。聖書の言葉に力がなかったのでなく、前提条件が間違っていたのです。
この言葉の一つ前には、「まず神の国と神の義とを求めなさい。」とあります。つまり、マタイ6:34の言葉は、神の国と神の義とを求めること。・・・端的に言うと、神様を第一とすることを前提としているのです。
マタイ6:34の言葉を、「神の国と神の義」とを第一にした視点で読むのと、「人間のがんばり」を第一にした視点で読むのとは、全く意味が異なってきます。
芥川は、聖書をあくまでも「人間の義」の視点で読んでしまったのです。これを人間の視点で読んで、人間のがんばりで実行しようとしても、失望があるだけです。
この真理は、私たちにとってはキリストへ導くための養育係(ガラテヤ人への手紙3:24参照)ですが、当時の芥川が置かれていた環境では、失望に導くための言葉でしかなかったのですね。
さて、話を戻しましょう。このお話の結論です。
今日のお話は、現代の私たちがマタイ6:34を読んだときに与えられる希望と、芥川がマタイ6:34を読んだ時に感じたことについて考えてみました。
この事から言えるのは、やはり第一に「神の国と神の義」を求めるのが大切だと言うことです。
明日明後日や、将来に対する不安なんてのは、考え出すとキリがありません。しかし、考えたからと言って、今の現状が少しでも変わるのでしょうか。
そうでなくて、私たちクリスチャンは、まず「神の国と神の義」に目を向けるべきだと思います。
主の祈りの始めも、御名・御国に関する事から始まります。この論理は、聖書全体を通して一貫していますね。
願わくは、そのような信仰が与えられますように。
さて、今日もなんだか勇ましい話で終わりましたが、私自身は小さきもので、不安だらけです。もっと祈り、信仰を強めていただきたいですね。