Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

エゼキエル書 12章 「象徴的行為による預言」

それゆえ、人の子よ、捕囚の荷物を整え、彼らの目の前で昼のうちに移れ、彼らの目の前であなたの所から他の所に移れ。彼らは反逆の家であるが、あるいは彼らは顧みるところがあろう。

エゼキエル書 12:3

今日の箇所は、神様がエゼキエルに象徴的行為による預言を命じた箇所であります。

注意していただきたいのは、12章と11章は、文脈的にはつながっていないことです。旧約聖書の預言書では、たびたびこのような事があります。

この章の預言は、主に捕囚の民に向けて語られたものであると考えられます。捕囚の民の中には、自らが捕囚にあっていながらもエルサレムの不可侵を盲目的に信じ、捕囚はすぐ終わるものと思っていた人が多かったようです。

そのような民に、主なる神はエゼキエルを通して警告を発したのです。

お気づきのように、このような象徴的行為による預言は、4章でも行われています。この章と4章との違いは、「彼らの前で」行われたことではないかと思います。

この章の後半でも預言されていますが、エルサレム陥落という神の裁きは、遠い未来ではなくすぐに起こる裁きなのです。神様は「彼らの前で」エゼキエルに預言をさせ、その切迫感を表現したのです。

エゼキエルにとって、民の前でこのような預言をすることは、非常に辛いことであったでしょう。民が聞き入れないならなおさらです。

イエス様も、オリーブ山からエルサレムを見つめて

ああ、エルサレムエルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。

マタイ23:37

と嘆かれました。

エゼキエルを、そしてイエス様を受け入れなかったイスラエルの姿は、今日の私たちの姿でもないでしょうか。

神でない物を神とし、滅び行く日本を眺めて、私たちはこのように愛を持って嘆くことをしているでしょうか。

信仰は個人の物でもありますが、同時に人に伝えるものでもあります。私たちクリスチャンは、拒否を恐れて何も言わないのではなく、神の真理を語るものであるべきです。

どうか、地の塩世の光として、日々を歩むことができますように。