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Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

イエスキリストを信じる信仰による神の義

しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 (‭ローマ人への手紙‬ ‭3‬:‭21-22‬ JA1955)

今日は、信仰による義についてお話ししたいと思います。

私達が神の前に義(つまり、神様と正しい関係にある)であるという事は、どういう原理によってでしょうか。もう一度確認してみましょう。

第一に、この義は「与えられた」義であるという事です。この義は、「イエスキリストの十字架による贖い」を信じる事によって与えられた義です。

イエス様の十字架と復活を信じる過程で、私達の努力が必要な点は全くありません。

また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。 (‭コリント人への第一の手紙‬ ‭12‬:‭3‬ JA1955)

とある通りです。

第二に、この義は「転嫁された」義であるという事です。

転嫁(てんか)とは、「責任転嫁」などで使われる言葉で、いわば「責任をなすりつける」事であります。

私達は、自分の罪がイエスキリストに転嫁され、そのキリストが十字架刑に処され、三日めに復活した事によって、義とされたのです。

この義は、「義」という衣を上からかぶせていただいたようなイメージです。つまり、私達の内面とは関係ないのです。

サタンは、内面の不十分さを指摘し攻撃してきますが、その声に同意してはなりません。

内面のきよめは、また別の話です。私達が義とされた事は、内面のきよさとは無関係なのです。

キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。 (‭ガラテヤ人への手紙‬ ‭3‬:‭27‬ JA1955)

というみ言葉からも明らかです。

ついつい熱くなってしまい、少し長くなりました。ご了承ください。

どうか、私達がこの救いの恵みを再確認し、確信を持って歩めますように。