今日は、信仰による義についてお話ししたいと思います。
私達が神の前に義(つまり、神様と正しい関係にある)であるという事は、どういう原理によってでしょうか。もう一度確認してみましょう。
第一に、この義は「与えられた」義であるという事です。この義は、「イエスキリストの十字架による贖い」を信じる事によって与えられた義です。
イエス様の十字架と復活を信じる過程で、私達の努力が必要な点は全くありません。
また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。 (コリント人への第一の手紙 12:3 JA1955)
とある通りです。
第二に、この義は「転嫁された」義であるという事です。
転嫁(てんか)とは、「責任転嫁」などで使われる言葉で、いわば「責任をなすりつける」事であります。
私達は、自分の罪がイエスキリストに転嫁され、そのキリストが十字架刑に処され、三日めに復活した事によって、義とされたのです。
この義は、「義」という衣を上からかぶせていただいたようなイメージです。つまり、私達の内面とは関係ないのです。
サタンは、内面の不十分さを指摘し攻撃してきますが、その声に同意してはなりません。
内面のきよめは、また別の話です。私達が義とされた事は、内面のきよさとは無関係なのです。
キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。 (ガラテヤ人への手紙 3:27 JA1955)
というみ言葉からも明らかです。
ついつい熱くなってしまい、少し長くなりました。ご了承ください。
どうか、私達がこの救いの恵みを再確認し、確信を持って歩めますように。