今日の箇所は、試練の受け止め方について語られた箇所です。
生きていると、大小様々な試練に遭遇します。
私たちは、できれば試練から逃れたいと思っていますし、可能な限り平穏に暮らすことを望んでいます。
では、完全に人であり、かつ神であるイエス様はどうだったでしょうか。
イエス様は、ゲッセマネの園でこう祈られました。
「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。 (マタイによる福音書 26:39 JA1955)
イエス様も、できれば十字架という試練から逃れたかったのです。
十字架は、肉体的な苦痛はもちろん、精神的な苦痛も想像を絶するほどであったでしょう。
しかし、イエス様は十字架の先にある、復活と昇天を望みとして、この試練を乗り越えられたのです。
私たちにも、永遠の命という望みが与えられています。私たちは、死んで終わりではなく、死んでも生きるのです。
私たちが会う試練は、血の汗を滴らせて祈るほどの試練ではありません。
それに加えて、イエス様が私たちと共に苦しみ、耐えてくださるのです。試練の中にいる時でも、一人ではないのです。
今日も、この事を覚えて主に感謝しましょう。