Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

知られない神への祭壇

実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。 この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。

使徒行伝17:23-26

背景

 この箇所は、パウロがアテネへ伝道したときの記事である。

アテネと言えば、プラトンソクラテスを排出した哲学・学問の中心地であると共に、その都市名がギリシャ神話に関係しているほど、偶像礼拝の中心地でもあった。

アレオパゴスの評議所というのは、当時のアテネを自治していた議会のことである。パウロははじめ、会堂(シナゴーグ)や広場でイエスを述べ伝えていたが、広場で会ったストア派エピクロス派の哲学者に連れてこられたのである。

彼らの原動力は、単なる知的興味であった。当時のローマ帝国における自由人は、奴隷が働くことによって収益を得ていたため、自分で汗水垂らして働く必要がなかった。

要するに、彼らはパウロの話を聴くということに対して、単なる暇つぶし程度にしか考えていなかったのである。

パウロのメッセージ

そんな彼らに対しても、パウロは至極まじめに福音を語った。彼はまず、町中にある偶像礼拝のための祭壇の一つに、「知られない神に」という祭壇があったという事を述べている。

ここから、彼は「その『知られない神』こそが、天地万物を創造された神なのである」と宣言したのである。

そればかりでなく、イエスの死と復活についても述べた

神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。

使徒行伝17:31

ここから、パウロの福音に対する熱心さと、一人でも多くの人に福音を伝えるという使命感を感じる。

人々の反応

死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。

使徒行伝 17:32

パウロが一生懸命伝えた結果は、さんざんであった。死人のよみがえりを聞くと、ある人たちはあざ笑い、あるひとたちは「いずれまた聞くことにする」と言ったのである。

私たちが福音を語ったときも、同じような反応を得るのではないだろうか。

日本では、「あざ笑う」ことはなくても、「いずれまた聞くことにする」という反応は、よくある反応である。

しかし、福音に「いずれまた」は無いのである。もしかしたら、これが信じるラストチャンスなのかもしれないのだから。

ローマ帝国は、この後キリスト教を迫害することになるが、それと同時に勢いも衰えていく。慌ててローマはキリスト教を国教化するが、すでに手遅れだったのである。

少数の「信じた者」

しかし、彼にしたがって信じた者も、幾人かあった。その中には、アレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという女、また、その他の人々もいた。

使徒行伝17:34

しかし、信じる少数の者もいた。いつの時代も、少ない数ではあるかもしれないが、神様はご自身を信じる人間を用意されているのである。

パウロは、時に意気消沈したかも知れない。それでも、この「信じた者」が、どれだけ彼の力になっただろうか。エリヤにとって、「バアルにひざをかがめなかった男子七千人」が励ましであったように。

私たちの選び

それでは、私たちはどうだろうか。イエスの死と復活を聞いて、私たちは「いずれまた聞くことにする」と言って曖昧にするのか、信じた少数の者になるのか。

今日、信じた少数の者になる決断をしようではないか。

神様は、その決断を必ずや祝福してくださる。