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Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

精神疾患とどうつきあうか

なぜか、私の周りには精神疾患を持った方々が多い。

いや、そうではなくて、実はそういう人は多いのだけれど、ひた隠しにしているのかもしれない。

 

現代社会は、ストレス社会と言われるほどに、多種多様のストレスを抱えて生きていかなければならない時代になっていると思う。

それは、キリスト教会に集う信者も例外ではなく、クリスチャンの中にも精神疾患の当事者、あるいは精神疾患を持った方々に寄り添う人がいると思う。

私も、その中の一人だ。

 

そういうわけで、今日はクリスチャンが精神疾患をどう捉えるかという事に関して、少し考えてみたいと思う。

今日の話は、精神以外の障害についても、同じような事が言えるのではないかと思う。

それでは、しばらくの間、お付き合い願いたい。

 

精神疾患は、罪に対する罰ではない

はじめに、このことを強調したいと思う。

日本では、因果応報という言葉がよく用いられる。

これは、元々仏教用語であるが、現代の日本人に深く根付いている精神ではないだろうか。

何か良いことがあれば、それは自分の行いが良かったから。何か悪いことがあれば、それは自分の行いが悪かったから。それが、因果応報である。

 

このことについて、聖書はどう教えているだろうか。

確かに、旧約聖書では、罪に対する罰が明確に記されている箇所が多数ある。イスラエルの行く末が悲惨であった現実は、彼らの罪に対する罰の部分が多い。

それでは、新約はどうだろうか。ルカによる福音書13章で、イエス様がこんなたとえ話を語られている。

ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。 そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。 

ルカによる福音書 13章 1-3

まず、「ちょうどその時」とあるが、どんなときなのか見てみよう。

これはイエス様が、今の時代はイエスをメシアと信じるべき時代になったのだから、悔い改めて福音を信ぜよと勧めているお話をされていた時である。

そんなとき、ある人々がイエスを試そうと思ったからか、上記の質問を投げかけたのだろう。おそらく彼らは、イエスが因果応報論を語る事を期待していたのだと思う。

この話は、当時ピラトがガリラヤ人を虐殺し、その血を生け贄の血に混ぜたという、なんとも残虐な話を話題にしている。

この残酷な事件に巻き込まれたのは、その人たちが、他の人より罪深かったからだろうか。

イエス様は、その事を否定された。そうではなく、誰でも等しく罪深いのであり、ほかの人たちもイエスをキリストと信じなければ、同じように滅びると語られたのである。

これは逆を言えば、イエスを信じることによって、全ての罪は赦され、滅びることがないということに他ならない。

義なる神が「赦した」という罪に対して、その報いを与え続けるだろうか。

そういうわけで、罪の赦しをいただいている私たちにとっては、罪に対する罰はもう無いのである。

 

なぜすぐに癒されないのか

上記の議論を受け容れたとしても、新たなる疑問が浮かび上がる。それが、「なぜすぐに癒されないのか」という疑問である。

この疑問はやっかいで、時々「あなたの信仰が弱いから癒されないのだ」という、間違った結論に導かれてしまうことがある。

それでは、このことについて私たちは、どう考えればよいだろうか。

 

聖書には、約束が与えられたものの、なかなか現実に反映されない事例が多く記されている。

真っ先に思い浮かぶのが、アブラハムへの子孫と土地に関する約束である。彼は、結局土地を全て得ることは無かったし、今でもイスラエルは、約束の土地全てを所有していない。

ほかにも、聖書の中で「信仰の偉人」とされている人々には、約束の物をすぐに手に入れる事ができなかった人々が多い。

このほかにも、ヨブ記に見られるように、何の罪も犯していないのに災いが次々に襲いかかる事もある。しかも、ヨブ記のどこにも、この災いが降り注いだ意味についての明確な答えが無いのである。

要するに、私たちには、本当の意味は分からないのである。

 

信仰とは耐え、待ち望むことである

はっきり言って、人生には理不尽と思える事も多い。神が存在し、その神が愛なる神ならなぜ...と思うことが多々ある。

ではなぜ、それでもなお、私たちは神を神として信じるのだろうか。

それは、「神が神であるから」ではないだろうか。

私たちはイエスキリストを、私たちの罪を贖うために十字架につけ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座して、私たちをとりなしてくださるお方だと信じている。

神であられたお方が、そこまでの犠牲を払って、私たちの罪の贖いを完成してくださったのである。

ここまでしてくださった神様が、なおも私たちに良い物を与えようと思われないだろうか。

事実、神様は、私たちに永遠の命の保証を与えてくださっている。私たちは、死んでも生きるのである。しかも、栄光の体に変えられて、神と顔と顔を合わせた生活が約束されているのである。

 

私たちは、このような信頼を持って神を信じ、歩んでいるのである。これが、クリスチャンの信仰ではないだろうか。

 

生きていると、いろいろな苦しみがある。時には、死んでしまいたいと思うこともある。それでも、私たちはこの信仰を持って、生きるのである。

最後に、みことばでこの拙文を閉じよう。

すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。

だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。

なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。 

第二コリント 4:15-18