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Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

エゼキエル書 14章 「悔い改めの勧め」

主なる神は言われる、わたしは生きている、たといこれら三人の者がその中にいても、そのむすこ娘を救うことはできない。ただ自分自身を救いうるのみで、その地は荒れ地となる。

エゼキエル書 14:16

14章は、二つの区分に分けられるでしょう。

長老たちの罪の糾弾(1-11)

一つ目は、1節から11節までです。

ここでは、エゼキエルの前に集まった長老たちの罪が書かれています。

彼らは、捕囚の地においてユダの人々のリーダー的存在であったと推測されます。彼らは、もちろん表立っては偶像礼拝に染まっていませんでしたが、彼らの心の中には、確かに偶像があったのです。

神様は、そのような状態で預言者の言葉を聞こうとする民を裁くと仰っています。神は、うわべだけ主に信頼する、二心の者を忌み嫌われるのです。

ところで、彼らの「目に見えない偶像」とは何だったのでしょうか。

それは、プライドであったかもしれません。富や名誉であったかもしれません。

神よりも大切にしているものは、すなわち偶像であります。私たちにも、そのような物、あるいは人がいないでしょうか。

伴侶がある人は、もちろん伴侶を大切にすべきですが、神より優先してはいけません。日本では、奥さんの事を「カミさん」と言いますが、奥さんが「神様」ではいけないのです。

これは難しい問題ですね。私には、克服が難しい問題かも知れません。独身でいた方が良いのかも。

伴侶のほかにも、お金であるとか、日々の食事であるとか、神様より大切にしてしまう事は多くあります。あなたはどうでしょうか。

もし、内側に目に見えない偶像があると示されたなら、悔い改めて主のみを信頼しましょう。

裁きの確かさと正当性(12-23)

二つ目は、12節から最後の23節までです。

ここでは、裁き(エルサレム陥落)の確かさと、その正当性が記されています。神様は、旧約聖書で「三大義人」と言われている「ノア、ダニエル、ヨブ」がそこにいて、その娘息子のために熱心に祈ったとしても、救われるのはノア、ダニエル、ヨブのみだと語っています。

捕囚に至ったほどですから、ユダの罪は満ちていました。その罪に対する裁きは決定事項で、たとえ義人の祈りがあったとしても、覆すことはできなかったのです。

また、神様は、エルサレムから捕囚の地へ逃れてきた人々の話を聞いたとき、エルサレムの状況を聞いて、主の裁きの正当性によって慰められるであろうとも述べられています。

エルサレムの罪は、裁かざるを得ないほど満ちていたのです。

まとめ

エゼキエル書全体に言えることですが、厳しいことが書かれていると感じる方が多いと思います。

確かに厳しいですが、ただ厳しいだけではありません。神様は繰り返し、「悔い改めるなら救われる」と仰っています。

この厳しさは、ある種のショック療法ではないでしょうか。

私たちの人生にも、思いがけないショックなことがたびたび起こります。私たちは、それらを恐れてしまいがちです。

しかし、それらを「ショック療法」と考えるなら、良い悔い改めの機会となるのではないでしょうか。

聖書の中の厳しい言葉の中にも、主の愛を感じられるほどに成長したいものです。