Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

人生の主役に専念しよう

「あなたは人生の主役です」という言葉の落とし穴

「あなたは人生の主役です!」

自己啓発系のブログや書籍を読むと、ほぼ必ず出てくるセリフである。
これは非常に魅力的なセリフであるし、なんだか本当にそんな気がしてくる。

しかしちょっとまってほしい。仮に主役は私だとして、脚本や演出は誰なのか。
自己啓発本などを読んでいると、どうも脚本や演出まで、主役がやることになっているようだ。

それはあまりにも、主役に多才さを求め過ぎではないか。

私が思うに、自己啓発本が絵に描いた餅である理由は、この点が考慮に入っていないからだと思う。

そのことに気が付かないで、自己啓発的思考によって、かえって挫折感を味わう人がどれほどいるだろうか。

このことを思うたびに、自己啓発的思考には多くの欠点がある事を認めざるをえない。

人生の脚本家や演出家は誰か

上記の議論に納得いただけたとして、次に問題となるのは、人生の脚本や演出を誰に頼むかである。

せっかく頼むなら、当然名の通った、それなりに評価が高い人が良い。

自分の好みを理解してくれて、自分が理想とする人生を作ってくれる人が良いに決まっている。

そういう思いが神格化され、体系化されたのが「宗教」である。

残念ながら、このような宗教に「キリスト教」が少なからず含まれていることを認めなくてはならない。

キリスト教史は、権力と富によって腐敗した教会の姿を何度も記録している。

私たちは、欲望が形となったようなものに、自分自身の人生の脚本を任せてよいのだろうか。

真の脚本家を探し出そう

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば見つかります。

マタイによる福音書 7章7節

それでは、真の脚本家を探し出すにはどうすればよいか。その答えは、上に引用した言葉のとおりである。

人生の価値は、自分の人生を導いてくれる存在によって決まると言って良い。
私たちは、そのような存在を熱心に探し求めることを要求されている。

これを誰にするかは、あなたが決めるべき事柄である。

しかし、私はその存在として、万物を創られた神という選択があることを伝えたい。

あなたは知っているだろうか。この天地宇宙を、そして人間をも創られた神を。

あなたは知っているだろうか。人間が神に背き、その身に罪を招き、その罪の結果が死である事を。

あなたは知っているだろうか。神はその罪を嘆き、罪の贖いのために、御子なるイエス・キリストを十字架につけられたことを。

あなたは知っているだろうか。そのイエスは復活し、そして天に昇られ、今も生きて私達のために祈ってくださっていることを。

あなたは知っているだろうか。このことを信じた私達のうちに聖霊が降り、私達が御子イエスと同じ性質に造り替えられつつあることを。

あなたは知っているだろうか。イエスはやがて地上に再臨され、この天地を裁かれる裁き主である事を。

あなたは...この神こそが、私達の人生の真の脚本家であることを知っているだろうか。


さあ、私たちは今日、岐路に立っている。神以外の何かに人生の脚本・演出を任せるか、神にすべてを任せるか。

繰り返すが、それを決めるのはあなただ。

聖書の神を人生のシナリオライターとして認め、人生における神の主権を認めようではないか。

そうすればあなたは、脚本や演出に時間を奪われることなく、主役を演じることに専念できるだろう。

人生は本来、そのように生きるべきではないだろうか。