Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

私にとっての教会

平日は忙しくてあまり考えないが、休日になると、自分にとって教会とは何なのかよく考える。

クリスチャンじゃない人にとっては、祈る場所くらいの認識しかないと思う。ただ、少しでも教会に通い続けてみた人は、教会には驚くほどの多種多様な役割や、集会があることに気がつくと思う。

私は個人的に、自分が制御できない時間(会議とか、誰かのお話を延々と聞くとか)は、正直言って苦手だ。だけれども、社会というのは大体それの繰り返しで、偉い人なんかの仕事は延々とそれをやり続けるような内容だったりする。

僕はそういうのが辛いので、田舎で技術者をやっているのである。田舎企業での技術者は良いよ。技術系の話は大きいものから小さいものまで全部ほぼ丸投げだけど、会議とかそういう僕の苦手な物はほとんど回ってこない。

もちろん、なにかをする上で必須となるコミュニケーションは求められるが、まあ最低限人間っぽい受け答えと、愛想の良い感じが出せたら困ることはない。いきなり使いかけのボールペン売れとか、そんな無茶な要求もされないし。

話がそれた。要するに、私にとって技術者という仕事のほうが、教会に行くより幾分気が楽だということである。

なぜなら、教会というところは、なんだか知らないけど一昔前の会社みたいな組織なのである。私みたいな気質の人にはなかなか居づらい空間だ。

ムダに長い会議を定期的にやったり、もっと省力化できそうなところにわけわからないほど労力を割いたり、意味不明である。

まあ、これ以上書いても仕方がない。とりあえず、私は今いる教会に、組織としての魅力は全然感じていない。改革が必要である。

それでも私が教会に行くのは、そこが神を礼拝する場所で、同じ神を信じる信徒との関わりを持てる場所だから。それ以上でもそれ以下でもない。

だから、私は教会に行かなくなることは無いと思うが、正直今のままの運用方法で貫き通すなら、あまり深く関わりたくはないと思っている。

前時代的な風習を絶たなければ、教会は時代遅れになるだろう。信仰は保守的な方が良いとは思うが、やり方というか、教会運営は時代に合ったやり方をやるべきだと思う。そうじゃないと、福音派の教会は今以上に、敬老会みたいになってしまうのではないか。

信仰の世界に年功序列の話を持ってるくるのは良いが、果たしてそれで教会の未来はあるのだろうか。

祈りと行動が必要だと思う。