今日からゴールデンウィークですね。この投稿を読んでいる方の大多数は、そうだと思います。
それらの人は、何らかの組織に属していて、普段はそこで社会生活を送っていると思います。もちろん私も、会社に属して、日々会社員をしております。
そういう人にとって、ゴールデンウィークというのは、滅多にない「自由時間の塊」だと思います。普段時間に縛られて生活している人々も、休みは自由に過ごせるはずです。
ところで、この文章でも「自由」と呼ばれる概念を、至極当たり前の共通認識として用いていますが、実際の所、自由とは何なのでしょう。
時間の自由が与えられているので、せっかくですから、自由について考えようではありませんか。
今回は、自由について考える手法として、「自由」という言葉を多角的、つまり様々な角度から見ていくことにします。
日本語の持つ「自由」の意味合い
いきなり主観的な議論で申し訳ないのですが、まずは、「自由」という言葉の一般的な語感について考えてみましょう。
私たちは普段、自由という言葉に対して、二通りの印象を持つと思います。
一つは束縛されないという印象で、もう一つは「勝手気まま」という印象です。
たとえば、冒頭で用いた「休みは自由だ」という言葉は、「会社の束縛がない」という意味で用いられています。
何時に起きても、何時に寝ても、仕事をしてもしなくても、誰も何も言いません。それが「束縛がない」という意味での自由です。
かといって、たとえば人を殺したり、物を盗んだりして罪に問われたとき、「私には自由がある」と主張したとしても、それは認められません。
それは「勝手気まま」な自由なのです。これを認めてしまうと、「汚物は消毒だ−!」の世界になってしまいます。世紀末ですね。
日本語の元々の意味は、後者の「勝手気まま」であったと言われています。しかし、明治時代に福沢諭吉が、英語の "Freedom" や "Liberty"の訳語として「自由」を用いたこと*1から、「自由」がこのような複雑な意味となってしまったのです。
「自由」と訳された英語について -法学的立場で考える-
それでは、更に「自由」について考えるために、英語の意味と、それが持つ法学的意味について考えてみましょう。
英語の意味を知るには、英英辞典が便利です。そういうわけで、今回はLongman英英辞典のWeb版*2を用いてみました。
free‧dom1 [uncountable and countable]the right to do what you want without being controlled or restricted by anyone
まずは、freedomです。何となく日本語訳すると「何者からも、制限または抑制されることなく、やりたいことをする権利」と訳せると思います。
lib‧er‧ty plural liberties1freedom
[uncountable]the freedom and the right to do whatever you want without asking permission or being afraid of authority :
次は、Libertyです。これも何となく日本語訳すると「freedomで、権威を恐れたり、許可を問うたりすることなく、したいことは何でもできる権利」と訳せると思います。
さて、両者の間における絶対的な違いは、「何らかの共通する道徳・倫理基準があるかどうか」だと思います。
freedomという言葉には、共通の基準、つまり法があることを想定していません。集団に存在する法は、個々人の良心か、権力者の意志です。
これは法学で言う、いわゆる「自然状態」における自由を示していると考えられます*3。
それに対して、Libertyは、「社会状態」における自由であると考えられます。Libertyが想定する集団には何らかの共通した法があると思います。その上で、freedomな状態がLibertyなのです。
真の自由とは何か
さて、これまで「自由」という言葉が持つ意味合いについて論じてきました。
自由には、freedomのような意味もあるし、libertyのような意味もあると分かっていただけたと思います。
ところで、あなたにとっての「自由」とは何でしょうか。やりたいことをやりたいだけすることでしょうか。
実は、聖書の中にそれを「言葉通り」実行した人物、ソロモンが登場します。彼は、莫大な富を持ち、栄華を極めた生活を送っていました。
まさにfreedomです。
そんな彼ですが、「伝道者の書」と呼ばれる書で、このように告白しています。
空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
伝道者の書 1:2〜3
彼はまさにfreedomの絶頂で「すべては空である」と証言したのです。彼には、何かが足らなかったのです。欠乏感があったのです。
彼の生活には、創造主なる神の存在が無かったのです。それこそが聖書が語る「罪」であり、彼の欠乏の原因だったのです。
さて、ソロモンの言葉に対して、新約時代に活躍したパウロと呼ばれる伝道者が、このような言葉を遺しています。
わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
ピリピ 8:11
実は、この言葉は、獄中から書かれた手紙の中で語られた言葉です。
彼はfreedomも無ければ、Libertyさえもなかったのです。そのような状況で、彼は「どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」というのです。
彼をそうさせた力は、どこから来たのでしょうか。11節のすぐ後ろで、パウロ自らが語っています。
わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。
ピリピ 8:12-13
「わたしを強くして下さるかた」とは、イエスキリストです。
キリストは、私たちが罪から解放され、真の自由を得るために十字架で身代わりとなって死んでくださり、復活して罪に打ち勝ってくださったのです。
あなたも、この救い主なるイエスキリストを信じて、真の自由を得てみませんか?
そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
ヨハネ 8:32
長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。
皆さんに、神様の祝福がありますように。
*1:冨田宏治 「欲望」「権力」「自由」の思想史 西欧「近代」と日本「近代」
http://homepage3.nifty.com/k_tomida/sisosi02.htm
*2:Longman English Dictionary Online
*3:専門ではないので、間違ってたら教えてください