中心聖句
ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」
使徒行伝 3:6 口語訳
背景
時代
ペンテコステにて教会が誕生した後しばらくした頃
登場人物
この箇所のポイント
本質的な問題を解決した
ここでもし、ペテロやヨハネが施しを与えていたら、彼はそれからも施しを受け続ける人生であった。それは本質的な解決にはならず、単に依存関係を構築しただけである。
彼は足が動くことによって、自分で糧を得る事ができるようになり、主体性を持って人生を歩けるようになった。
ただし、万人にとって、必ずしも身体的障害が根本問題でない可能性がある。この箇所のみを引用して、イエスの御名によって祈れば、すべての病気が治ると期待するのは危険であるし、非現実的である。
私たちへの適用
本質的な問題を見抜く力
私たちは、日々いろいろな問題や課題に遭遇したり、相談されることがある。そういうとき、もちろん祈れば良いのだけれども、どう祈れば良いのだろうか。
単純に「こう祈ってほしい」とか、「これが問題だ」と言われたとおりに祈るのは簡単だ。しかし、それが的外れな祈りだとしたら、「祈ったとおりにならない」という話になる。
そうすると、祈る方も祈られる方も、あまりいい影響は受けないのではないか。もちろん、祈りの過程で神様によって修正される事もあるとは思うが。
私たちクリスチャンには、本質的な問題を見抜く力が必要である。場当たり的な祈りではなく、確信を突いた祈りの方が良い。
そうするためには、ますます私たちが「聖霊が働くための、純粋な媒体」となる必要がある。「自分の思い込み」という不純物を取り除き、純粋に神からの語りかけを聞く姿勢が必要である。
権威に対する正しい自覚
我々は、しばしば他人によって付与されている権威を、自分の力だと勘違いする傾向がある。
これは歴史的事実か分からないが、トマス・アクィナスという哲学者で神学者であった男が、時のローマ教皇クレメンス4世を訪ねた。
時は中世ヨーロッパで、カトリック教会が莫大な富を蓄えていた時期である*5。
ローマ教皇は、彼に「初代教会では『金銀はない』と言ったが、今の教会では『金銀はない』とは言えなくなった(それほど裕福になった)」と語ったと言われている。
それに対して、トマス・アクィナスは「その通りだが、今では『イエスキリストの名によって歩きなさい』とは言えなくなった」と答えた。
この話は、非常に皮肉的であるが、私たちに大きな問題を投げかける話でもある。
「祈ったとおりになった」という体験や証は、それ自体非常に良い物であるし、神の力をわかりやすく伝える手段だと思う。今日の箇所の出来事も、すぐにエルサレム中で話題になっただろう。
しかし、単にそれを以て「伝道できた」と思うのは、浅はかではないだろうか。
私たちは、イエスキリストの権威を付与された者として、それを行使する事ができる。ただ、行使した後、神に栄光を帰す事を忘れてはならない。
あくまで、私たちは「通り良き管」となる事に専念すべきではないだろうか。
*1: 牧師の書斎, "5. 「美しの門」であかしされたイエスの御名の力", http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?美しの門であかしされたイエスの御名の力
*2:すでに死んだ者には、権威などはない。「神の御名によって」と言えば権威があるが、「モーセの権威によって」と言ったところで、何の意味もない。
*3: 使徒行伝 4:6
*4: 古代ローマにも知的労働はあったかも知れないが、属国で田舎であるユダヤでは、肉体労働以外に選択肢は無かったと思われる。
*5: 筆者個人に、現代のローマカトリック教会を批判する意図はない。ただ、プロテスタントの流れに属する故に、教理上での疑問点や相違点は当然ある。