Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい

中心聖句

ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」

使徒行伝 3:6 口語訳

背景

時代

ペンテコステにて教会が誕生した後しばらくした頃

地理的情報

エルサレムの神殿にある、「美しの門」と呼ばれる門のあたり。地理的には、神殿の東門 *1

当時の状況

イエスという、律法学者やパリサイ人など当時の宗教的指導者にとっては、文字通り「目の敵」だった人物をやっと十字架で始末できた。

しかし、イエスの弟子だった者たちは「イエスは復活した」という教えを述べ伝えはじめ、その教えを信じる信者が続々と現れた。

いったい、この教えは何なのか。また、彼らはいったい何の権威によってそのことを述べ伝えているのか*2。このことは、ユダヤ当局者にとって大きな問題であった*3

登場人物

ペテロとヨハネ

彼らは、初代教会の中心的なメンバーであった。おそらく、ペンテコステの出来事を経験し、霊的に強い確信と信仰を得ていたものと思われる。

生まれながら足のきかない男

彼は生まれつき足が動かず、仕事をすることができなかった*4

そのため、毎日美しの門の所に座って、施しを求めていた。おそらく、ここが一番施しが受けやすい場所だったのだろう。

本文解釈

金銀はわたしには無い

初代教会では、信者はそれぞれの財産や食料を持ち寄り、それらを共有していた。それ故に、ペテロやヨハネが自由に使える財産は無かった。

わたしにあるものをあげよう

ペテロやヨハネは、聖霊を受けていた。

ナザレ人イエス・キリストの名によって

聖書における「名前」の意味

聖書において、名前はそれを指す対象の、本質や権威を含めて用いられている。つまり、「ナザレ人イエス・キリストの名」とは、ナザレ人イエス・キリストの本質と権威を表している。

ナザレ人イエスの意味

これは、地上生涯を送られた「人間イエス」としての性質と権威を含んでいる。イエスは、ユダヤ人として当然守るべきモーセの律法と様々の規定を守り、何一つ欠点がなかった。

イエス・キリストの意味

キリストイエスとも言い換えることができる。キリストは、「救世主」を指すギリシャ語である。すなわち、この言葉は「救い主なるイエス」と読み替えることができる。

救い主であるとは、すなわち神である。

この箇所のポイント

本質的な問題を解決した

ここでもし、ペテロやヨハネが施しを与えていたら、彼はそれからも施しを受け続ける人生であった。それは本質的な解決にはならず、単に依存関係を構築しただけである。

彼は足が動くことによって、自分で糧を得る事ができるようになり、主体性を持って人生を歩けるようになった。

ただし、万人にとって、必ずしも身体的障害が根本問題でない可能性がある。この箇所のみを引用して、イエスの御名によって祈れば、すべての病気が治ると期待するのは危険であるし、非現実的である。

御名の権威

ペテロやヨハネは、聖霊を受ける事によって、御名の権威によって命ずる事ができるようになった。

私たちが祈るときも、「イエス様の御名によって祈ります」と口では発音しているが、果たして本気で信じているだろうか。

聖霊によって、私たちは神の御名の権威を媒介する、媒体となる事ができる。これは何たる特権であろうか。

私たちへの適用

本質的な問題を見抜く力

私たちは、日々いろいろな問題や課題に遭遇したり、相談されることがある。そういうとき、もちろん祈れば良いのだけれども、どう祈れば良いのだろうか。

単純に「こう祈ってほしい」とか、「これが問題だ」と言われたとおりに祈るのは簡単だ。しかし、それが的外れな祈りだとしたら、「祈ったとおりにならない」という話になる。

そうすると、祈る方も祈られる方も、あまりいい影響は受けないのではないか。もちろん、祈りの過程で神様によって修正される事もあるとは思うが。

私たちクリスチャンには、本質的な問題を見抜く力が必要である。場当たり的な祈りではなく、確信を突いた祈りの方が良い。

そうするためには、ますます私たちが「聖霊が働くための、純粋な媒体」となる必要がある。「自分の思い込み」という不純物を取り除き、純粋に神からの語りかけを聞く姿勢が必要である。

権威に対する正しい自覚

我々は、しばしば他人によって付与されている権威を、自分の力だと勘違いする傾向がある。

これは歴史的事実か分からないが、トマス・アクィナスという哲学者で神学者であった男が、時のローマ教皇クレメンス4世を訪ねた。

時は中世ヨーロッパで、カトリック教会が莫大な富を蓄えていた時期である*5

ローマ教皇は、彼に「初代教会では『金銀はない』と言ったが、今の教会では『金銀はない』とは言えなくなった(それほど裕福になった)」と語ったと言われている。

それに対して、トマス・アクィナスは「その通りだが、今では『イエスキリストの名によって歩きなさい』とは言えなくなった」と答えた。

この話は、非常に皮肉的であるが、私たちに大きな問題を投げかける話でもある。

「祈ったとおりになった」という体験や証は、それ自体非常に良い物であるし、神の力をわかりやすく伝える手段だと思う。今日の箇所の出来事も、すぐにエルサレム中で話題になっただろう。

しかし、単にそれを以て「伝道できた」と思うのは、浅はかではないだろうか。

私たちは、イエスキリストの権威を付与された者として、それを行使する事ができる。ただ、行使した後、神に栄光を帰す事を忘れてはならない。

あくまで、私たちは「通り良き管」となる事に専念すべきではないだろうか。

*1: 牧師の書斎, "5. 「美しの門」であかしされたイエスの御名の力", http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?美しの門であかしされたイエスの御名の力

*2:すでに死んだ者には、権威などはない。「神の御名によって」と言えば権威があるが、「モーセの権威によって」と言ったところで、何の意味もない。

*3: 使徒行伝 4:6

*4: 古代ローマにも知的労働はあったかも知れないが、属国で田舎であるユダヤでは、肉体労働以外に選択肢は無かったと思われる。

*5: 筆者個人に、現代のローマカトリック教会を批判する意図はない。ただ、プロテスタントの流れに属する故に、教理上での疑問点や相違点は当然ある。