Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

置かれた場所で咲きなさい思想とガチャ思想

今日、ふと昔流行った「置かれた場所で咲きなさい」という言葉を思い出した。

この言葉は、最近流行りの「親ガチャ」を代表とする、環境要因を強調する言葉とは真逆の思想だなと思い、時代の変化を感じたので、ちょっと両者について考えてみようと思う。

置かれた場所で咲きなさい

2012年に渡辺和子氏の著書 『置かれた場所で咲きなさい』 が出版され、この言葉は多くの人の心を打った。自分もこれに影響を受けた一人であり、キリスト教的な生き方について非常に感銘を受けたのを覚えている。

この考え方は、「自分のいる環境が思い通りでなくても、その中でできることを見つけ、前向きに生きる」 というものだ。これが流行った時代背景を考えてみよう。

リーマン・ショック後の好景気とSNSの状況

この時期の社会背景を振り返ると、リーマンショック後の景気回復期にあり、企業の採用も増え始めていた。また、東日本大震災の直後でもあり、色々な問題や課題はあるものの、頑張って復興に向けて歩もうという雰囲気があったと思う。

震災による一種の破壊による絶望と、その後の再構築に燃えていたような、いろいろな意味でエモーショナルな時代だったと思う。

この頃からブラック企業問題はあったものの、「安定した会社に入ればなんとかなる」という希望もまだ残っていた。また、SNSは広がり始めていたが、今ほど比較社会が加速しておらず、「努力すれば道は開ける」という価値観が比較的受け入れられていた時代だったと思う。

この言葉は、現状に不満を抱える人に対して「愚痴を言うより、できることを見つけて成長しよう」というメッセージを伝えるものであり、多くの人にポジティブな影響を与えたと思う(だから流行ったのだろう)。しかし同時に、「努力でどうにもならない環境」にいる人にとっては、「ただ耐えるべきなのか」という疑問を抱かせることもあった。

これが表面化しなかったのは、ひとえにSNSがまだ大衆化していなかったからだと思う。当時のTwitterは、まだいわゆるアーリーアダプターが大多数を占めていて、今みたいな猫も杓子もSNS時代ではなかった。それ故に、SNSをやる人間というのはそれなりに充実している人が大多数で、今の不幸自慢リプみたいな地獄な文化はなかった。

ガチャ思想

一方で、2021年頃から 「親ガチャ」「環境ガチャ」 という言葉が流行した。これは、「人は生まれた家庭や環境によって、人生の大部分が決まってしまう」という考え方を指す。

この背景には、経済格差の拡大と社会の閉塞感 がある。特にコロナショック以降、雇用の不安定さが増し、「努力すれば報われる」という価値観が揺らいだ。
また、SNSの発展により、他人の「成功」と「失敗」が可視化されるようになった。更に、Youtubeなどのサジェスト機能が進化してきて、一度成功者に関する動画や記事を見れば、自分のホーム画面が同じような内容であふれるようになってきた。

このような世の中に生きていると、実際はそうでなくても、弱者は弱者のまま虐げられ続け、強者はますます富と名声を得ていくように見えてくる。この「見えている現実」の前では、確かに努力なんて意味がないように見えるかも知れない。

努力すれば報われる?

努力すれば報われるというのは、昔からの常套句である。いわゆる公正世界仮説から来る発言だと思う。

私自身、努力すれば報われるというのはある程度信じているが、やはりこれは成功した人間が自分の努力を振り返って言うための言葉だと思う。
公正世界仮説の立場でこれについて話すと、どうしても報われていないのは努力していないからという話になってしまい、世代間の分断が深まるのではないかと思う。

特にZ世代は、コロナ禍で他の世代が学生時代にやっていたであろう経験の多くを得る機会が無かったのではと思う。
昔、修学旅行に行けなくなったので、教室でリモート修学旅行をしたといったニュースを見た(下記に貼っておく)。

当時も思ったが、流石にこれは可哀想過ぎる。自分なんて、もっと小さいことで中学生時代なんか「自由がない」と騒いだものだが、この苦行を学校の決定としてやらされたのなら、確かに無力感も感じるだろう。

どちらが正しい?

結論から言うと、どちらも正しいし、どちらも正しくないと思う。自分は、今まで自分の意に沿わない状況になったとき、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉を信じて頑張ってきて今があるが、このキャリアパスに再現性があるとは思えない。

かといって、何でもかんでもガチャだと言ってやる前から諦めてしまうと、得られたかもしれないことまで逃してしまう。また、いわゆるリセマラを繰り返すような人生を歩んでしまっても、正直良い人生になるとは思えない。

ガチャ思想には、Z世代の短期的な成果を求める、いわゆる「タイパ」思想が強く影響しているように思う。とにかく効率的に物事を進めて、最小限の時間で最大限の成果を得たいという考えは理解できるが、この思想が行き過ぎても結構しんどいものがある。

こういった価値観が一般化するのは、社会全体に余裕がなくなってきているからでは無いかと思う。タイパを重視する世代が生まれたのは、それより上の世代がタイパを重視する社会にしたという現実があるし、社会の流れとして自然とそうなった側面もある。

この問題を考えるたびに、重要なのは時代を読むことだなと思う。よくあるネット記事のように、「Z世代はこういった特徴がある」という事実だけを読んでいても、彼らがなぜそのように考えているのかが見えてこない。大切なのは、時代背景を十分理解したうえで、彼らが置かれている状況を理解し、その上でどのような生存戦略を考えているのかということを理解することではないか。

なんだかこう考えていると、ガチャという思想も、Z世代が置かれた場所で咲きなさいという言葉を実行した結果の生存戦略ではと思えてくる。

長くなったが、結局両者の思想というのは、どのように生きるかということを時代に当てはめて考えた結果であり、どちらも時代の産物なのかなと思った。