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Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

人と違うということへの恐れ

あなたは、「人と違う」ことに恐れを感じますか?

 
私は、かつて「人と違う」ということに、非常な恐れを感じたことがありました。
ご存じの通り、私は見た目からして「人と違う」人間です(私はメビウス症候群で、顔面神経麻痺のため、人とはだいぶ違う外見をしている)。
 
もちろん、十人いれば十人の顔がありますから、厳密に言えば「人と違う」訳ですが、私の場合は本当に違うのですね。
 
あなたは、乙武洋匡さんの「五体不満足」を読んだことがあるでしょうか。あの本の中で、乙武さんは「子供ほど、障害の事をストレートに聞いてくる」という旨のことを書いておられました。
 
私も、そのような経験があります。子供は無邪気に、「どうして口が閉じないの?」と聞きますし、時にはからかうこともあります。
 
「子供は」と言いましたが、大人も時にこういうことをしますね。自分たちを基準に考えて、それを逸脱する人に対して、好奇の目を向けるわけです。
 
聖書にも、そのような話が出てきます。ヨハネによる福音書9:2-3に
 
「弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答え られた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」
 
これは、結構有名ですね。弟子たちは、おそらく若干の好奇心から「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と尋ねたのではないかと思います(あくまで推測です)。
 
それに対して、イエス様は
 
「イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」
 
と答えられました。これも推測ですが、おそらく「当たり前」のようにして話されたのではないかと思います。他の特性と同じで、障害でさえも「神のみわざが現れるため」に用いられるのだと。
 
私はこう思います。体の障害も、もちろん心の障害も、それを含めて「その人自身」であるのだと。
 
旧約聖書に、ヨブ記という書があります。この冒頭を、少し読んでみてください(1章だけで良いです)。
 
ここからわかるのは、サタンの企みの中でさえも、神様のご計画の内にあるということです。
 
この言葉はよく吟味しないといけないのですが、一つ言える事は、神の臨在無しに起こることは一つも無いということです。起こること全てを神様はご存じであるのです。
 
神が愛だという聖書の真理に立ったとき、神が全てをご存じというのは、なんという祝福でしょうか。
 
この事を思いつつ、患難にも耐えることができますように。