教会に行かなくなって、もう多分4,5年になるんだろうか。
自分が教会に行かなくなった理由は、なにか一つ大きな理由があったというよりは、いろいろな理由が複合的に合わさった結果のような気がする。
まず大きかったのが、教会が自分で学習し、自分で理解を深める人間を異端視した点だ。教会というのは、信者が、言ってしまえば迷える子羊のままであり、教会の言うことを素直に信じる存在であることに価値を置くらしい。彼らの言う信仰の成長というのは、教会に対する信仰心の成長であり、聖書やイエス・キリストへの信仰心の成長ではないのかもしれない(もちろん、全部の教会ではなく、自分が行っていた教会だけの話だと思いたい)。
聖書というのは奥が深いもので、かつ現在でも多くの聖書学者がその一生をかけて研究し続けている、生きた書物だ。そのような書物に対して、数年間勉強しただけで全容が理解できるわけがなく、本来は日々研究が必要な書物だ(まあ自分も正直日々研究はしていないが)。聖書というのは、教会や教団が決めた「答え」を鵜呑みにしてそれを教えるような書物ではなく、本来はもっと学術的、かつ信仰的に扱うべき書物だと自分は思っている。
ところが教会というのはあくまで宗教団体であるので、前述したようなものとは真逆の性質を持つ。これは別に悪いことではなく、むしろ宗教団体としてあるべき形であるとさえ思っている。宗教団体というのは、元来なにか固定された教えがあり、それを守るもの。あるいは信仰の対象を信仰する集団であり、別に聖書を研究するための集団でないことは承知している。
教会に於いても、「聖書研究」と呼ばれる活動は行われているが、これはいわば学習会のようなものであり、研究とは名ばかりである。いわゆる夏休みの自由研究レベルで、研究と言うよりはお気持ち発表会に近い。まあこれも重要な会であり、別にお気持ち発表会が悪いというつもりはないが、これで研究していると言い張るのはたちが悪い。
教会というのはその性質上、やはり学術ではなく信仰生活の寄りどころであり、そうあるべき場所でもあると思う。多くの人は教会を必要としているし、多分自分自身も教会を必要としている。ただ、一般的に教会にはびこる当たり前文化、例えば会堂維持が主目的のお金を献金として集め、それが神に対する捧げものだと言い張ったり、挙句の果にはマラキ書3章8〜10節を引き出して、献金をしないと呪われると言い出す始末はいただけない。これではただの集金団体ではないか。
マラキ書の該当箇所というのは、背景としてイスラエルの人々が、本来第二神殿を建設するために集めた資材を、近隣諸国の住民の妨害に負けて建設を途中で放棄してしまったばかりでなく、余った資材を自分の住宅の建設に使い始めたという背景がある。確かに、この箇所は読み取り方によっては、現代でも神に返すべき献金用のお金を自分の生活に使っていると取れなくもないが、そう取るのは乱暴すぎるのでは無いかなとは思う。労働の対価はその人のものであり、それをどう使うかは対価を得た人自身の判断で決定されるべきだ。仮に、その人がもともとは献金すると決めてわけておいたお金を自分のために使う場合、確かにそれは咎められることかもしれないが、そのつもりがないのに強制的に収入の一定数を勝手に他人に献金として割り当てられ、それを渡さないと不信仰だとされるのは、あまりにも全体主義的ではないか。献金するのが普通であり、献金しないのがあまり良くないことだとされるまではまあわかるが、献金を強要する、あるいは強要と取れる行為をするということは、教会の役割を逸脱していると思う。懲罰は及び腰で大したことができないのに、献金だけは半ば強制できるというのは、団体として不健全ではないだろうか。
会堂維持や教会の維持に金が必要なら、そう言って献金を募ればよいのだ。いくら必要でいくら足らないから、教会のために献金してほしいといえばいい。それをせずに、十一献金をまるで月給のように扱い、献金前提で予算を組むというのは、自分たち自身で十一献金がただの会費だと言っているようなものではないか。
会費が必要なら会費として集めるべきだし、最初は献金は会費じゃないので必要ないですよと言っておきながら、教会員になって長く教会に行くうちに、いつの間にかそれが義務になるというのは、最初の契約と違うのでは。そういった不誠実さが、宗教に対する不信感を生むのだ。
まあボロクソに言っているが、自分もできることなら教会に行きたいというのが本音ではある。とは言っても、元いた教会に戻る気は今のところ無いし、別の教会にも行ってみたがイマイチ馴染めなかった(というか、教派が違うので洗礼を受け直すとか、結構ややこしいことになるので定着は難しそう)。キリスト「教」というものにも正直失望しか無く、宗教というものに魅力を感じなくなってしまった。
しかしながら、聖書やイエス・キリストに対する信仰がなくなったかと言うとそれは違う。今でも聖書の神が実在することは信じているし、イエス・キリストの十字架によって自分の罪が贖われたことも信じている。これはもはや自分にとって変えようのない事実であり、生涯この信仰がなくなることはない。
そうは言っても、いわゆる信仰生活にもう一度復帰できるかは正直分からない。キリスト教会を単なるコミュニティみたいなものだと割り切り、献金を会費みたいなものだと思って惰性で払えば復帰できなくもないと思うが、自分の中の青さと言うか、若さがそれをさせないと思う。もっと年を取ってどうでも良くなれば、多分教会に行き始めるのではとも思う。それが良い変化なのか、悪い変化なのかは正直分からんが。