Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

infinite synthesis 4

fripSideのアルバムは結構多いけど、infinite synthesis 4って自分の中では盲点と言うか、普段聴かないけどいい曲が揃っているアルバムだなと思う。

satさんの音楽の趣味って結構時代によって変わってて、芯にある電子音楽やJ-POPというのは変わらないけど、なんと言うか流行りみたいなのがあると思う。例えばonly my railgunの後の曲はしばらく似たような音楽だし、3期の最初の方も結構only my railgunを踏襲した曲が多かったような気がする。でも最近は原点回帰というか、一期の頃のテイストであったり、infinite synthesis 4の頃の電子音楽バリバリの雰囲気も含んでいるような気がする。

satさん作曲の曲にはいろいろな魅力があるが、やはりシンセサイザーのバッキングが気持ちいいという点と、転調が気持ちいいという点、それとギターがかっこいい点ではないだろうか。例えばinfinite synthesis 4の曲でclose to youという曲があるが、この曲は先程挙げた良い点を全部含んでいる曲だと思う。

fripSideという名前はflip side(レコードのB面・裏面)という英語に由来するユニット名らしいが、名前の通りアルバムの中の一つの曲にsatさんらしさというか、fripSideらしさを感じる曲が散りばめられていて、何度聴いても飽きない仕掛けを仕込んでいるんだなと思う。

fripSideっぽいアーティストは色々とあるが、やはりsatさんは唯一無二の魅力を持つアーティストだなと思う。これからもどんどん活躍してほしい。

教会とどう向き合うか

教会に行かなくなって、もう多分4,5年になるんだろうか。

自分が教会に行かなくなった理由は、なにか一つ大きな理由があったというよりは、いろいろな理由が複合的に合わさった結果のような気がする。

まず大きかったのが、教会が自分で学習し、自分で理解を深める人間を異端視した点だ。教会というのは、信者が、言ってしまえば迷える子羊のままであり、教会の言うことを素直に信じる存在であることに価値を置くらしい。彼らの言う信仰の成長というのは、教会に対する信仰心の成長であり、聖書やイエス・キリストへの信仰心の成長ではないのかもしれない(もちろん、全部の教会ではなく、自分が行っていた教会だけの話だと思いたい)。

聖書というのは奥が深いもので、かつ現在でも多くの聖書学者がその一生をかけて研究し続けている、生きた書物だ。そのような書物に対して、数年間勉強しただけで全容が理解できるわけがなく、本来は日々研究が必要な書物だ(まあ自分も正直日々研究はしていないが)。聖書というのは、教会や教団が決めた「答え」を鵜呑みにしてそれを教えるような書物ではなく、本来はもっと学術的、かつ信仰的に扱うべき書物だと自分は思っている。

ところが教会というのはあくまで宗教団体であるので、前述したようなものとは真逆の性質を持つ。これは別に悪いことではなく、むしろ宗教団体としてあるべき形であるとさえ思っている。宗教団体というのは、元来なにか固定された教えがあり、それを守るもの。あるいは信仰の対象を信仰する集団であり、別に聖書を研究するための集団でないことは承知している。

教会に於いても、「聖書研究」と呼ばれる活動は行われているが、これはいわば学習会のようなものであり、研究とは名ばかりである。いわゆる夏休みの自由研究レベルで、研究と言うよりはお気持ち発表会に近い。まあこれも重要な会であり、別にお気持ち発表会が悪いというつもりはないが、これで研究していると言い張るのはたちが悪い。

教会というのはその性質上、やはり学術ではなく信仰生活の寄りどころであり、そうあるべき場所でもあると思う。多くの人は教会を必要としているし、多分自分自身も教会を必要としている。ただ、一般的に教会にはびこる当たり前文化、例えば会堂維持が主目的のお金を献金として集め、それが神に対する捧げものだと言い張ったり、挙句の果にはマラキ書3章8〜10節を引き出して、献金をしないと呪われると言い出す始末はいただけない。これではただの集金団体ではないか。

マラキ書の該当箇所というのは、背景としてイスラエルの人々が、本来第二神殿を建設するために集めた資材を、近隣諸国の住民の妨害に負けて建設を途中で放棄してしまったばかりでなく、余った資材を自分の住宅の建設に使い始めたという背景がある。確かに、この箇所は読み取り方によっては、現代でも神に返すべき献金用のお金を自分の生活に使っていると取れなくもないが、そう取るのは乱暴すぎるのでは無いかなとは思う。労働の対価はその人のものであり、それをどう使うかは対価を得た人自身の判断で決定されるべきだ。仮に、その人がもともとは献金すると決めてわけておいたお金を自分のために使う場合、確かにそれは咎められることかもしれないが、そのつもりがないのに強制的に収入の一定数を勝手に他人に献金として割り当てられ、それを渡さないと不信仰だとされるのは、あまりにも全体主義的ではないか。献金するのが普通であり、献金しないのがあまり良くないことだとされるまではまあわかるが、献金を強要する、あるいは強要と取れる行為をするということは、教会の役割を逸脱していると思う。懲罰は及び腰で大したことができないのに、献金だけは半ば強制できるというのは、団体として不健全ではないだろうか。

会堂維持や教会の維持に金が必要なら、そう言って献金を募ればよいのだ。いくら必要でいくら足らないから、教会のために献金してほしいといえばいい。それをせずに、十一献金をまるで月給のように扱い、献金前提で予算を組むというのは、自分たち自身で十一献金がただの会費だと言っているようなものではないか。

会費が必要なら会費として集めるべきだし、最初は献金は会費じゃないので必要ないですよと言っておきながら、教会員になって長く教会に行くうちに、いつの間にかそれが義務になるというのは、最初の契約と違うのでは。そういった不誠実さが、宗教に対する不信感を生むのだ。

まあボロクソに言っているが、自分もできることなら教会に行きたいというのが本音ではある。とは言っても、元いた教会に戻る気は今のところ無いし、別の教会にも行ってみたがイマイチ馴染めなかった(というか、教派が違うので洗礼を受け直すとか、結構ややこしいことになるので定着は難しそう)。キリスト「教」というものにも正直失望しか無く、宗教というものに魅力を感じなくなってしまった。

しかしながら、聖書やイエス・キリストに対する信仰がなくなったかと言うとそれは違う。今でも聖書の神が実在することは信じているし、イエス・キリストの十字架によって自分の罪が贖われたことも信じている。これはもはや自分にとって変えようのない事実であり、生涯この信仰がなくなることはない。

そうは言っても、いわゆる信仰生活にもう一度復帰できるかは正直分からない。キリスト教会を単なるコミュニティみたいなものだと割り切り、献金を会費みたいなものだと思って惰性で払えば復帰できなくもないと思うが、自分の中の青さと言うか、若さがそれをさせないと思う。もっと年を取ってどうでも良くなれば、多分教会に行き始めるのではとも思う。それが良い変化なのか、悪い変化なのかは正直分からんが。

健康の価値

健康の価値というのは、失ってはじめて気づくとはよく言ったものだ。

何でもそうだが、普段身近にあるものというのは、価値を過小に見積もってしまう傾向がある。失ってわかるものというやつだ。

一週間くらい前に、妻が虫垂炎で入院した。手術自体は問題なく終わったものの、術後の体調不良・メンタル不調が続いて、このところ毎日のように病院に行ったり救急に電話で相談していたりする。

今書いているこのブログも、病院のロビーの邪魔にならなさそうなところでノートパソコンを広げて書いている。妻の付き添いで病院に来ているのだ。

虫垂炎の手術は簡単な手術とは言うが、やはりそれは心身ともに健康的な人だからであって、もともと心身に何かしらの不調を持っている妻にはちょっと荷が重かったのかもしれない。とはいえもう手術はやってしまったので、術後にどれだけ回復できるかという話になってくるのだが。

今の状況を考えると、自分がなにか不調で病院通いになってしまうと、結構大変なことになりそうだなと思う。健康には気をつけないと・・・。

突然

何について書かれた記事か伝わるよう、タイトルをもう少し具体的にしてみましょうって今日も言われた。まあ妥当なアドバイス。

最近、車の中でよくZARDの曲を聴いている。ZARDの曲は昔から知っていて好きだが、なんだか最近改めて聴いたらハマってしまった。

ZARDの曲って歌詞が真っすぐで、曲を聴いているとその歌で描いている情景がよくわかるような、そういうわかりやすさがあると思う。まあこの90年代の曲ってのは大体そうだが、ZARDの歌詞にはそれを強く感じる。

タイトルに書いてる突然って曲も、突然昔の恋人から手紙が来て、急いで恋人の家に車で向かっている様子が目に浮かんできそうなほど真っ直ぐな歌詞になっている。この曲はポカリスエットのCMに使われたらしいが、確かになんだかポカリスエットを飲みながら運転してそうな気がする。少なくともコカ・コーラではないと思う。

ZARDの他にも90年代〜2000年代くらいのJPOPをよく聴くけど、やっぱりあの時代の夏の曲ってのは底抜けの明るさというか、眩しいくらいの清涼感がある。ちょうどギャルゲーでも夏をテーマにした作品が次々と出てきてた時代で、なんと言うか夏に対してなにか特別なものを感じていたことを思い出す。yozuca*のFragment ~The heat haze of summer~とか、部活の夏合宿中に延々とループして聴いてたな。

ちなみに、この部活というのはプログラミングする部活で、自分は高専の低学年の頃そこに所属していた。その頃は、毎日よく分からんC言語をひたすら写経していたことを覚えている。正直あまり面白くなかったが、そんなときに聴いていた音楽は覚えているのは面白い。ちなみにC言語はもう10年くらいまともに書いてないので忘れた。まあ、そもそも文法がわかるってくらいで関数ポインタとか構造体を使ってクラスもどきみたいなことをやるとか、そういった高等テクニックはそもそも使えなかったが。

だいたい、当時はMFCかDelphiでGUIアプリを書くのが主流だったから、C++ならともかくC言語をマスターしたところで、僕らが作りたかったゲームやらWindowsアプリは作れなかったわけだが。まあ、「猫でもわかるWindowsプログラミング」という一見簡単そうに見えてゲキムズな入門書もあったが・・・。この本は名前に似つかず結構真面目な本で、Win32APIにウィンドウメッセージを飛ばしまくってアプリを開発するという最高にクールな本だった。

実はこの経験無駄にはなっていなくて、数年前から時々作っている、会社での.NET Frameworkアプリの自動化ツールを作るときに、このウィンドウメッセージという概念を使った。人生、意外なところで昔の知識が役に立つことがあるものだ。

さて、仕事に疲れたおっさんなので、昔話を少ししすぎた。こうやって思い返すと、高専時代というのは自分にとって毎日が刺激的だったんだなと思う。今も別の意味で刺激的ではあるが、この頃の純粋な知的好奇心を刺激するという意味での刺激的な日々が懐かしい。あの頃は金はなかったが時間はあった。今は金が無くもないが、時間はまったくない。どっちがいいんだか。金があると言っても使える小遣いがちょっと多いくらいの話だが・・・。

まあこの辺にして、今日は寝よう。

集合的無意識

最近ペルソナ4Gをやっている。ペルソナ4自体は、PS2版を3周くらいやったんだけど、なんだかまたやりたくなってP4GをPS5で買ってしまった。

ペルソナ4は、ペルソナシリーズでは例外的に、かなりジュブナイル寄りのストーリーだと思う。もちろん他のナンバリングタイトルでもジュブナイルみはあるのだが、ペルソナ4は一番ジュブナイル感があるかな。

自分はペルソナ3〜5をプレイしたことがあるが、3はちょっとジュブナイルと言うにはストーリーが重めでキャラクターにイマイチ愛着がわかず途中でやめてしまったが、4と5はどちらも何周かやるほどやり込んだ。やはりクマとかモルガナみたいなマスコットキャラクターが必要なんだろうか。あるいは、4も5も集合的無意識やペルソナにフォーカスしているが、3についてはちょっと現実世界にフォーカスしすぎているからか違和感を感じるのかもしれない。どちらがいいと言うわけではなく、好みだと思うが。

さてこの集合的無意識だが、みんな大好きユング先生の提唱した概念である。ユングいわく、我々が意識として認識しているのは表層的なものであり、その下に個人的無意識があり、その下に普遍的な無意識があるというやつですね。

個人的にこの概念には正直懐疑的、というか単純化し過ぎではと思うが、精神を理解するうえでの助けになるとは思う。最も、心理学とか経営学みたいな、掴みどころのないものを学術的に読み解く場合、こうやってある種の解釈学的なモデルを定義するのはやむを得ないが。

まあ、ユングとかフロイト自体が古き良き時代の精神分析的アプローチであり、現代人にすべてを当てはめるのは難しいのは当たり前だが。

キリスト教の人間理解って、このユングやフロイトの時代の人間理解で止まってるのではと思うことがある。もちろん、主語がデカいことは理解しているが・・・。おそらく、この時代に学んだ牧師が多いのだと思う。現場で人間と真面目に向かい合っていたら、もうユングやフロイトの提唱した精神分析では説明できない事態が起こっていることは理解していると思うんだが。

まあこれを批判したのがポストモダンであり、ポストモダンによるとキリスト教の救済論のような「大きな物語」は終わったとされている。今はポストモダン(ポストモダンは批判のみで新しい概念を打ち立てられなかった)を経た時代であり、人々が小さな物語をそれぞれ持って生きている時代になった。

そういう意味で、ペルソナを使いこなし、真の自分を守るって概念が古いのかも。真の自分が曖昧化し、人間関係が複雑化している。人間関係自体が変化しているとすれば、人々はそもそもペルソナを使い分けること自体をやめて、言ってしまえば適当に人間関係をこなしているかもしれない(これ自体がペルソナかもしれないが)。

面白いのが、そんな時代に生きている僕らが、それでもペルソナ4の物語に惹かれているということ。自分探しなんてもう古いとわかっていながら、本当の自分、あるいはすべてのペルソナを統合した先に居る本当の自分のようなものが居ると信じたいのかもね。古き良き時代の人類が、大きな物語を信じていたように。

さて話が無限に広がってしまったが、キリスト教という文脈から弾き出されてしまった今、良い機会なのでこのブログではキリスト教批判でなく、キリスト教、というか聖書信仰の次の形みたいなのを考えていけたら面白いかなと思う。

これは、教会の内部に居るとまあできない話なので。彼らすぐに異端扱いするからな。

自分の言葉で語ってよ!!

自分は別にアンチAIではなく、むしろAIをずっと使っている方だが、最近あまりにもAIが書いたっぽい文章が多くて辟易している。

まあ、自分自身も一時期似たようなことをやっていたので、気持ちはわかる。AIで出力した文章は、一見すると体裁が整っているように見える。なにかこう、もっともらしいことを語っているように見える。

でもしっかり内容を吟味してみると、「で?」と言いたくなるような文章になっていることが多い。つまり、何を言いたいのかよく分からんのだ。結論として言いたいことは書いてあるが、結局何が言いたいのか文章全体から伝わってこない。要するに文章に血が通っていないのである。

この手の失敗は、AIを使っていると度々やらかしてしまう。AIを使っている自分自信が、AIのもっともらしい出力に騙されているのである。

数日前から発声練習だと思ってブログを書くようにしているが、こうやって自分の考えをちゃんと書いたり、他人が書いた文章を読んで他人の思考を考えたりするのは、いわば思考のストレッチのようなものだと思っている。

技術的な課題に対するAIの回答は、大抵的を得た回答を返してくる。これについては、現時点で自分はAIの回答をある程度信頼しても問題ないと思っている。しかしながら、人間関係とか現実社会の問題に対するAIの回答は、相変わらずいい加減な回答か、質問者に必要以上に寄り添った・・・あるいは媚を売るような内容となってしまう。これは多分AIの問題と言うより、人間が入力するプロンプトの問題ではないかと思っている。人間は本質的に、人間関係や現実世界を正確に言語化できないのではないか。

もちろん、最近では世界モデルのように、人間の学習環境になるべく近づけてAIの精度を上げようとする試みもあるが、どこまで行ってもある程度の制約のもとで展開される仮想現実であり、現実ではない。フレーム問題はどこまで行ってもついて回る。まあ、もちろんこれは経験が浅い人間にも言えることだが。将来的には、経験豊かな学習済みAIが高価な賃金・・・もといサブスク料金で提供される日が来るかもしれない。いやもう来てるか。

最近のAIはある程度文脈を忖度するが、その忖度するベースも言語化された学習データを基にしている。仮に人間が人間関係について正確に言語化できない存在だとしたら、AIが人間関係を正確に理解して回答する日は来ないだろう。人間が言語化できていない要素を、どうやって人間以外が理解できるだろうか。当の本人にも理解できていないのに。

もしそんな存在があるとしたら、それこそ神と言えるだろう。ただここでの神も面白くて、人間が作ったはずのAIも完全に制御しきれない存在なのに、神というのは人間を完全に制御しきれるだろうか問題が出てくる。

結構勘違いしている人も居るかもしれないが、AIの開発者でもAIの挙動を完全に説明できるわけではない。奴らは確率モデルなので、完全に説明可能な動きをするわけではない。これは実は自然界にも同じような話があって、今あなたがこのブログを読んでいるその端末も、中で動いている半導体のその中身において、今この瞬間に電子がどこに分布しているかは観測しないと分からないのである。つまり、原理がわかっていることと、その時点における内部状態がすべて説明できることとは、科学においては等価ではないことがよくある。

神をどう定義するかはあまり有益なテーマであるとは思わないが、少なくとも聖書では神が人間の行動に対して手を焼いている様子は見て取れる。この世界において、本質はどうであれ言語を喋って自分で思考する(あるいは思考するように見える)存在には手を焼かされるのが常らしい。

そろそろこの記事は終わろうと思うが、多分こういった内容はAIには書けないと思う。AIは賢いように見えて、メタ的視点や一見関係ないことをつなげるのは下手だから。

眠れない夜を抱いて

金曜日の夜はなんかウキウキして眠れないよね。という記事を目をしょぼしょぼさせながら書いている。正直もう寝たい。

ブログを毎日書いてみようと思って書いてみているが、やっぱりなんというか、構造化された文章を書こうとすると全然続かなさそうだな。

今日は一日、昨日会議で詰められた活動計画の練り直しをやっていた。まあ、正直自分でも後から見るとあんまり良くない計画だなと思ったけど、これ書いてるときはこれでもいけるかなと思っていたんだよ。最近思うんだが、自分が他人に言っていることの1割も自分自身で実行できていないんじゃないかと思う。エビデンスとかKPIとか言うくせに、自分が計画を立てるといい加減な計画を立ててしまう。

変な成功体験もあると思うんだよね。適当にやっても、最後に帳尻が合った成功体験が。それもまあ嘘ではないと思うが、毎回毎回うまいこと帳尻を合わせることに成功するとは限らない。やはり正攻法でロジックを固めていかねばならない。

人間というのは自分に甘いので、他人に理詰めできても自分に理詰めするのはなかなかできない。仕方がなかったとかなんとか適当な理由を探して、自分を正当化するのだ。

まあそういうのも人間らしくていいかなとは思う。だってにんげんだもの

仕事なんだから、まあ定量的な評価と計画は必要だよな。いきあたりばったりのDIYプロジェクトじゃないんだから。

定量的な評価って結構難しいよな。特に自分の得意分野だと、得意で良く理解しているという自負があるから、余計に定量的な評価をしなくなる。でもそれだといつか大きな失敗をやらかしそうなので、注意しないといけない。

今日はそんなことを考えた。