Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

無力さを乗り越えて

私は今、統合失調症を患っている女性とお付き合いをしている。

統合失調症とは、幻覚や妄想という症状が特徴的な、精神疾患である。彼女は、もう数年この病気と闘っている。

統合失調症の症状には、陽性症状と陰性症状の二種類がある。

陽性症状とは、幻覚や妄想といった、よく「統合失調症の症状」として扱われる症状である。陽性症状と言っても、聞こえないはずの声が聞こえたりする幻聴や、見えないはずのものが見える幻覚、他人が自分を悪く言っているように思ってしまう被害妄想など、様々である。

この陽性症状は、服薬によって多少は抑えられるとされている。もちろん、症状の残存はあるようだが。

陰性症状とは、感情の起伏が乏しくなる「感情鈍麻」や、自閉などの症状である。統合失調症というと、どうしても陽性症状が取り上げられがちだが、陰性症状も無視できない。

むしろ、陰性症状の影響で、社会復帰が遅れるということもありうる。

もう一つ、見落とされがちだが「認知機能障害」なる障害が発生することがある。

認知機能とは、知的な能力を指す。この部分に障害が残り、日常生活に困難さを覚えることもあるようだ。

このように、統合失調症という病気は、あらゆる症状の複合体である。

私は彼女とお付き合いし始めた頃、統合失調症という病気を軽く考えていた。なぜなら、彼女が全く普通の人のように見えたからである。

でもそれは、彼女が無理をしていただけだった。お付き合いが深まっていく毎に、私は統合失調症という病気の難しさを目の当たりにした。

私たち人間は、病に対してあまりにも無力だ。特に精神疾患に対しては、ほとんど対処療法しか持ち合わせていない。

私自身も、メビウス症候群という障害を抱えながら生きている。この障害も、非進行性ではあるけれど、根本的な治療法はない。あるとすれば、対処療法のみである。

私たちは、どうしてこうも無力なのだろうか。

この無力さは、神という存在がなければ、解決できない問題だと思う。

もし、神が存在して、その神が天地万物を創造されたお方であったとしたらどうだろう。

もし、その神が人間という存在を、愛をもって創造されたとしたらどうだろう。

もし、その人間が神に背き、罪を犯し、この世に罪が入ったとする。

もし、神がその罪を解決するために、最も愛する独り子を身代わりとして十字架につけて、罪を赦すと言われたらどうだろう。

聖書には、この「もし」が、事実として記されている。

この無力さ、解決できない山積みの問題が、すべて罪の結果だとしたら。

そしてその罪を、イエスキリストが身代わりに負ってくださり、私に罪の解決を与えてくださったとしたら。

これこそが、無力さの解決である。

これこそが、無力さを乗り越えた先にある、希望である。

全てに対する解決は、今は与えられないかもしれない。それでも、私達を救うために身代わりになってくださるほど愛してくださったお方が、その解決なのである。

無力さを乗り越える突破口は、ここにある。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネ3:16

疲れた時

年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

イザヤ書 40:30-31

人は、つかれるものである。

特に、私は生まれつき疲れやすい。虚弱体質とまではいかないけれども、やっぱり疲れやすい。

一般的に、疲れやすいというのは欠点である。仕事をする上で、すぐ疲れてしまってはどうにもならない。

とは言うものの、やはり疲れるときは疲れる。そんな時、私はこの御言葉を思い出す。

イザヤ書40章は、神の救いについての預言である。この世で肉体として存在する私たちは、年若くても疲れ、壮年でも疲れ果てて倒れてしまうのである。

もしそうだとしたら、老年の方や、人一倍疲れやすい私などはどうだろうか。すぐに疲れ果てて、何もできなくなって、絶望してしまうのではないだろうか。

しかし、ここでイザヤは「主を待ち望むものは新たなる力を得」と預言している。

イザヤが預言している、新たなる力とはなんだろうか・・・。

それはまさしく、イエスキリストである。

よみより帰り 死と悪魔に勝ちし
きみこそ勝利の主なれ
きみこそまことの主なれ
ほめよイエスをわれらの神を

新聖歌127番「墓の中に」 一部抜粋

主を褒め称えることは、私達の力である。今日も、主を褒め称える歌を歌いつつ、歩もうではないか。

前のめりの信仰

「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」
‭‭ピリピ人への手紙‬ ‭3:13-14‬ ‭JA1955‬‬
http://bible.com/81/php.3.13-14.ja1955
私たちは、時に過去の素晴らしい経験に満足して、それ以上を求めず生きている事がある。

パウロには、ダマスコ途上で復活の主にお出会いした経験や、第三の天まで引き上げられた経験があった。彼はこの素晴らしい経験を糧に、一生を平穏に生きていけたかもしれない。

それでも、彼は更に主を求め、人々に福音を伝える生活を送ったのである。

彼の目標は、この地上にはなかったのかもしれない。

私の目標は、どうだろうか。心を探っていただきたい。

今日、掲示板に社告が掲示されていた。何人かの方が、主任や係長に昇進していた。

その掲示を見ながら、いつかはわたしも...と野心に燃えている自分に気がついた。

主任になって、係長になって、もしかしたら部長になったとしても、神様を忘れてしまっては元も子もない。

私たちの目標は、ただ主に栄光を帰す生涯を歩む事である。この世のどんな栄光も、主の前に義とされている恵みに比べれば、取るに足らない。

こんな心構えで、前のめりの信仰姿勢を貫きたいと思う今日この頃。

明日も頑張ろう。

主の御心はどこにあるのか

わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。

イザヤ 55:8

主の御心は、往々にして私達の心とは異なります。

救いの計画はその代表例であります。

神は、神を神とせず、偶像礼拝を続けたイスラエルを何度も何度も赦されました。そして最後には、その独り子を十字架につけ、罪との決着をつけてくださいました。

歴史上の誰が、このような計画を想像できたでしょうか。

神は、私達の計画とは全く違う計画を持っておられるのです。

だからこそ、私達は主の御心を熱心に求める必要があるのです。

今、あることに関して主の御心を求めています。どうか、私の考えではなく、主の御心が成りますように。

キリスト者の確信

わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

ローマ人への手紙 8:38-39

ご無沙汰しております。

夏の疲れからか、どうも最近ばて気味です。

そんな中でも、仕事と礼拝はなんとか維持できているので感謝です。

 

私たちが霊的・精神的に弱っているとき、サタンは獲物を見つけたライオンのように走り寄ってきます。

そして、あの手この手を使って、キリストの愛から私たちを離れさせようとします。

しかし、ここでパウロが言っているように、どんな被造物も、私たちをキリストの愛から引き離すことはできないのです。

たとえ私たちが離れていったように思っていても、神様の側から私たちに近づいてくださるのです。何という祝福でしょうか。

この一週間くらい、聖書をまともに読む元気がありませんでした。それでも、神様はほかの方法でみ言葉に触れる機会を与えてくださいました。これが、「神様の側から近づいてくださる」という真理の実際例ではないでしょうか。

これからも、疲れて聖書を読む元気や、祈る元気がない時があると思います。そんなときでも、神様は様々な方法で、弱い私たちが神の愛につながる手段を与えてくださると信じています。

今週も、ぼちぼちいこうと思います。職場で改善すべき事は山ほど有りますが・・・

 

無代価で買い求める

「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。 (‭イザヤ書‬ ‭55‬:‭1‬ JA1955)

イザヤ書55章の1-13節は、神様が用意されている恵みへの導きを預言した箇所です。

今日の箇所では、神様の恵みを受けるための代価は必要ない事が語られています。

「金を出さずに買い求めよ」という言葉は、非常に意味のある言葉です。

金を出さずに済むということは、もとから無料であったか、誰かが代価を支払ったということです。

聖書全体の文脈で読むと、この箇所は後者を前提として書かれていることがわかります

私たちが受け取っている恵みの代価は、イエスキリストが十字架上で支払ってくださったのです。

イエス様が十字架上で、「完了した」と宣言されたその時、代価は支払われたのです。

私たちができることは、この事を信じ、感謝して「金を出さずに買い求める」事であります。

恵みは目の前で、しかも無料で売られていますが、これを買うかどうかは私たち次第です。

私たちは、すでに無料で買ったのに、また陳列棚に戻したりしていないでしょうか。また、勝手に値札を貼ったりしていないでしょうか。

恵みは目の前にあります。今、受け取る選択をしましょう。

復活のイエス様

彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。 (‭ルカによる福音書‬ ‭24‬:‭31‬ JA1955)

今日は、ある弟子達が落胆して故郷へ帰る道中で、復活のイエス様とお出会いした箇所を取り上げます。

彼らの落胆の原因は、イエス様の十字架でした。彼らは、イエス様がローマの圧政から解放してくださると期待していたのです。

それなのにイエス様は死んでしまい、しかも遺体が行方不明になってしまったのです。

彼らは、イエス様の復活預言を聴いていたのでしょうが、信じる事ができませんでした。

そんな彼らに、何も知らない旅人という形で、復活のイエス様が現れてくださいました。

また、現れてくださっただけでなく、聖書で復活について書かれている箇所を取り上げ、イエス様ご自身がメッセージをしてくださったのです。

しかし、彼らはまだ信じる事が出来なかったのです。彼らの心は、絶望で支配されていたのです。

彼らが信じる事ができたのは、その後イエス様がパンを取って祝福し、裂いた時でした。

私たちにも、この弟子達のように落胆する時があります。そんな時、自分の信仰の無さを嘆き、更に落胆してしまうかもしれません。

しかし、そのような時でもイエス様は謙って、私たちに一つ一つ教えてくださる方なのです。

今、信仰が弱いと嘆いているのであれば、その信仰さえもイエス様にお委ねしましょう。

主は強めて下さいます。