Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

エゼキエル書 13章 「偽りの預言」

「人の子よ、イスラエルの預言者たちに向かって預言せよ。すなわち自分の心のままに預言する人々に向かって、預言して言え、『あなたがたは主の言葉を聞け』。

エゼキエル書 13:2

エゼキエル書13章は、主が偽預言者を糾弾している箇所であります。

ここで言う「人の子」とは、エゼキエルであると考えて良いでしょう。この言葉は、主なる神がエゼキエルに対して、偽預言者に伝えるよう仰られた言葉です。

当時の預言者は、民に対して耳障りの良い言葉を語っていたようです。

すなわち、エルサレムは滅びるよう定められていたのに、そのことを預言せず、イスラエルの繁栄を盲目的に預言していたのです。

彼らは主の言葉ではなく、自分の思いや願いを「主が言われる」こととして預言していたのです。これは、非常に大きな罪であります。

彼らが行っていたことは、今日の教会でも起こりうることです。

近年、「繁栄の神学」と呼ばれる神学が横行し、多くのクリスチャンが惑わされていると聞きます。

彼らは、信仰があれば病気にならない。病気が治らないのは信仰が弱いせいだ。

あるいは、大きな教会こそ霊的に成長した教会であり、小さな教会は霊的に成長していない教会であると主張するのです。

また、多くの献金を捧げた者が多くの祝福を受け、少なく捧げた者は祝福も少ないとさえ言います。

そればかりではなく、自分にとって不幸な状況は全て悪霊の仕業であり、その悪霊を追い出さなければならないと言われる、いわゆる「霊の戦い」を強調することもあります。

私たちは、これらの教理に惑わされてはなりません。当時のイスラエルのように、偽預言者の言葉を鵜呑みにしてはならないのです。

彼らに決定的に欠けているのは、「恵み」の教理です。私達が今持っているもの、すなわち健康、財産、役割、能力などは、全て恵みであることを忘れています。

ヨブ記において、ヨブは全てを奪われたあとも、なおこのように告白しました

そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。

ヨブ記 1:21

この告白こそが、「恵み」の神学なのです。

繁栄の神学は、自分自身を見つめて、主なる神を見上げていません。私達が目を注ぐべきは、自分の健康でも、財産でも、役割でも、能力でもなく、主なる神と、そのひとり子なるイエスキリストのみです。

最後に、一箇所聖書箇所を読んで、終わりましょう。

すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

ヨハネの黙示録 3:19-20

今日、私たちが繁栄の神学に陥っていることに気が付き、悔い改めることができますように。