Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

消費される人々

ずいぶん前に別サイトを立ち上げて、何か一つにまとめようと思ったけど、一向にまとまらない。

よく考えると(まあよく考えなくても)、何も書いたり作ったり、読んだりしていないのだから、どこからか自然と何かが湧いてくるわけないのだが。

今日は、消費される人々について考えてみたいと思う。というのも

headlines.yahoo.co.jp

これを読んだからだ。

クリスチャンがAV女優の話かよと思われるかもしれないけど、まあ私もお年頃の男なので。
教会関係の方々には、しかめっ面されそうだけど。

昔から、AV女優の人って、なんでその職業を選んだのか気になってた。
でも、その「気になってた」って、彼女たちを消費する目的だったのかなとも思えてきた。

AV女優という職業は、職業柄、人に消費されるのが仕事のようなものだと思う。
人は色々な目的でAVを見ると思うけど、誰も画面の先に居る女性と知り合いたいなんて
思っていないと思う。

でも、少し興味は持っているんだよね。彼女らがなぜこの職業を選んだかって。
AVの最初のほうにインタビューがあったりするけど、あれはそういうニーズを満たそうとしているのかも。

これって、本人がすすんで話す分には問題ないけど、第三者が必要に聞くのはよくないのかなと思ったりする。

彼女らは、すでに自分の大部分を、消費されるために差し出している。それに加えて、彼女らの心まで消費するために取り出してしまったら、彼女らには何が残るだろう。

この記事を読みながら、そんなことを考えていた。

人間というのは罪深いもので、一度消費するターゲットを決めてしまうと、それが抵抗しない限り消費し続ける。
例えば学校でのいじめがそうだ。いじめる側は、ストレス発散や、自分の不安を鎮めるためにいじめる。
別に、いじめられる子を嫌ってるとか、否定したくて仕方がないほど憎んでいるわけではない。

その証拠に、いじめる相手なんてころころ変わる。仮にいじめる側が学校や職場を辞めたり、最悪死んでも、彼らはいじめをやめない。後悔したとしても、やりすぎて大ごとになったなと思うくらいだ。

彼らは新しい矛先を見つけて、もう一度攻撃を始める。次はあなたがその矛先かもね。

あなたは、消費される人間になってないだろうか。
消費される人間として、人生をあきらめていないだろうか。

我々クリスチャンは、よく「神の愛」を説く。それはよいことだと思うし、正しいことだと思う。
でもね、日本でクリスチャンになるような恵まれた人は、愛のない世界を味わったことがない人も多いのかなと思う。

僕は昔、よく学校でいじめられた。障害が原因の時もあるし、性格が煙たがられた時もある。
僕はそれが悔しくて、自分の手で何かを勝ち取ろうと思って、工学を身に着けた。

文章の練習もしたな。

そのおかげで、今は会社でも、一定の評価を得ていると思う。
まあ、素行や言動が気に入らないと思う人も中には居て、僕を嫌ってる人もいるだろう。
露骨に敵意を示してくる人も、少しは居る。

人と接してると、愛を感じることもあるし、びっくりするくらい冷たいものを感じる時もある。
だから僕は、正直な所、コンピュータと接しているほうが気が楽だ。傷つかなくてよいから。

それでもやっぱり、人と付き合いたいときもある。

そんな時、僕は「人を消費する」ということについて、常に警戒しておかないといけないなと思う。

人に評価されようと思って行動することは、間接的に自分を消費させるように仕向けている。
自分の商品価値を高めようと考えているからだ。

人の陰口を言うのは、人を消費していることになる。

もちろん、正当で客観的に人を評価することが求められる場面もある。
そんな時は、なるべく私情を排除して評価したいものだ。

とにかく、僕は人に消費されたくないし、なるべく人を消費したくない。
協調性というのは、この前提が守られたうえで求められるのではないだろうか。

こういう考えは、日本社会では異端だろうな。
まあ、いいけどね。

※一応おことわり
AV女優という職業は、聖書中では遊女と似たような立ち位置にあると思います。
遊女と言えばラハブを思い出しますね。彼女はイスラエルの偵察部隊を
かくまったので、聖書に名前が記されました。

それだけでなく、マタイによる福音書には、メシアの系図に登場する
一人として名を残しています。

彼女は、神の基準からすれば、断罪されるべき人でした。
しかし、彼女だけではなく僕らもまたその一人です。

人は一度死に、死後神の裁きを受けると聖書は断言しています。
我々が神の法廷に立った時、生前の業績はなんの弁護もしてくれません。

このような罪人に対して、神はひとり子なるイエスキリストをつかわし、何の罪のない彼を十字架につけることによって、私たちの罪を贖ってくださったのです。

神は、あなたを消費するようなお方ではありません。あなたのすべてを理解し、受け入れてくださるお方です。

どうか、この神様と出会い、イエスキリストの救いを、あなた自身のものにできますように。