僕が彼らと出会ったのは、高専2年生の頃だった。授業で、夏目漱石の「こころ」を読んだときの衝撃は、今でも覚えている。
それからというもの、僕は「内省的である」事が、一種の頭の良さをあらわすステータスと考えるようになった。
これはとても危険な事である。なぜなら、いくら内省したところで答えなんて出てこないからだ。
「答えが出ない」というのは誤りかもしれない。内省の先にある答えは、「自分が悪い」という答えだ。
妥協無き内省の結果は、自殺か鬱だと思う。非常に高い水準で(時に聖書の基準で)、まじめに内省をしていたら、結論は死ぬしかなくなる。
僕は一度、このような状況に陥った事がある。僕の場合妥協したので、死ぬことは無かったが。
当時の僕は、こんな事を考えていた気がする。
死んだところでどうなるだろうか。死ぬしかない人間が死んだところで、果たしてその死に何か贖罪的な意味があるだろうか。
たとえば犯罪人がその罪のために死ぬなら、なるほど当然の報いを受けて死ぬことになるかもしれない。あるいは、その死には犯罪予防的な意味があるかも知れない。
だが、他人から見ればきわめて善良な人間が、自分の内省の結果から出た自責感によって死んだところで、その死にいったい何の意味があるだろうか。
そしてこの考えの結論として、イエスキリストの十字架と復活を持ってきていたのではあるが、実はどうも腑に落ちていなかった(クリスチャンであったけれども)。
今思い返すと、このときは、十字架と復活を単なる論理的整合性をとるために持ち出していたように思う。
もちろん、十字架と復活は、そんな矮小化されるようなものではない。もっと雲の中から光が差すような、明確な解決策である。
僕は、自分の内省の整合性をとるためだけに、十字架を利用していた時期があったのだ。
十字架の救いはそんなものではなく、もっと絶対的な解決であるのに。
内省をするというのは悪いことではないが、時に自己完結するような錯覚に陥る危険性がある。
僕たちが救われるには、イエスキリストの十字架という、絶対的外部要因が必要なのである。内部完結型クリスチャンでは、本当の救いは見いだせない。
今、自分の中で、今日書いた事がとても腑に落ちている。
もしこの拙文を最後まで読んでくださった方が居るなら、僕の考えが少しでも良い影響を与えるといいなと思っている。