桜の季節だ。
桜というと、昔の話としては、舞鶴医療センター前の桜並木を思い出す。
最近では、教会近くの公園の桜を思い出す。
それと同時に、新海誠の「秒速5センチメートル」も思い出す。
そういうわけで、この投稿は、秒速5センチメートルを見ながら書いている。
このアニメ、何度見ただろうか。
それでも、見るたびに印象が変わるから不思議だ。
昔に見た時は、ただ貴樹が羨ましくもあり、そして意気地なしだとも思った。
彼は中学生時代の恋愛を引きずって、高校時代に想いを寄せてくれた人も、社会人になってからお付き合いした人も、傷つけてしまった。
僕はそんな彼が許せなかった。
彼はとんだ意気地なしだと。ひどいやつだと思った。
でも、今になって見直してみると、僕は貴樹を責めることができない。
終わり方がまずかったんだ。
彼は、明里に渡すはずだった手紙を渡し損ねた上に、明里に「貴樹くんは、きっとこの先は大丈夫だと思う」なんて別れ際に言われたものだから、引きずるしか無い。
貴樹にとっては、明里が居なければ「大丈夫」ではないのだ。転校が続いた貴樹にとっては、明里という存在が支えだったのに、その彼女に「きっと大丈夫だと思う」なんて言われたら、どうしようもない。
明里は前を向いて、もういっしょに人生を歩むことのない、貴樹との関係を過去のものにしようとした。そして不器用なりにそのことを伝えようとしたけれども、貴樹は気が付かなかったか、あるいは受け容れられなかった。
ここに、この物語の核心があるのだと思う。
区切りをつけれた明里は、新しい地で新しい人生を歩み出す。貴樹は薄々そのことに気が付きながらも、過去を過去とすることができない。
彼にとっては、もう明里がどう思っているかなんて、どうでもいいのかもしれない。ただ、明里との思い出を過去にできないでいるだけなのだ。
彼もこのことがわかっているし、周りを巻き込んでいることもわかっているけど、でも先に進めない。
そういうもどかしさをうまく表現している点が、秒速5センチメートルの素晴らしさだと思う。
更にこの作品の素晴らしいところは、終わり方が良い点だ。
一般的な解釈としては、長年思い続けた明里は結婚しようとしているけど、貴樹は踏切ですれ違ったような気がする明里を見て、やっと踏ん切りをつけられただけ。彼女とも別れて、仕事も辞めて何もない。そういう鬱エンドと解釈される事が多い。
しかしながら、先程述べたように、貴樹が「貴樹くんは、きっとこの先は大丈夫だと思う」ということばを引きずっていたとしたら、これほどのハッピーエンドはない。
彼は明里との思い出から開放されて、今を生きることができるようになったのだ。最後の場面の貴樹の顔の、なんと穏やかなことか。
春という季節は不思議で、昔のことを色々と思い出す。
ある程度の年数を生きていると、昔の思い出が足かせになることが度々ある。
でも、昔の思い出に縛られることなく、常にいまを生きていたいものである。
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
第二コリント 5:17