Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

僕にまかせてください

クラフトというフォークソンググループの曲に、僕にまかせてください という曲がある。

この曲、ぜひ歌詞を味わって聴いてもらいたい曲なんです。

この曲はさだまさしの作詞作曲なんだけど、なんというか、グレープ時代のさだまさしの魅力をそのまま表現したような曲で、非常に良い。

やはり人間というものは、年を取ってくると価値観も変わるもので、70年代から90年代の曲と2000年代の曲とでは、歌っているテーマが全然違うのだ。

どちらが良いかというのは人の好みなので、それはそれとして置いておくが、僕は80年代くらいのさだが一番好きだ。

 

最近はどちらかというと、歌詞に余韻を持たせないというか、非常にストレートでメッセージ性の強い曲が多いように思う。そういう曲は作詞者の好みに合わない人を全く退けてしまうので、非常にもったいないような気がする。

 

僕は絵画はよくわからないが、写実画と抽象画との対比と似ているかもしれない。

 

さて、前置きが長くなった。

 

この曲の良いところは、固有名詞があまり出てこないのに、情景を容易に思い浮かべることができる点だと思う。

僕ときみの関係性も明記してないし(婚約者だとはすぐに分かるけど)、場所も鮮明じゃない(まあ、墓と言えば山奥のちょっと高いところにあるけど)。わかってるのは、季節が秋ということくらいだ(彼岸の前なので)。

ここまで短い歌詞で、情景を描写できるのは素晴らしい。

 

まあ、もちろんこれは日本人が持っている共通認識が背景にあるわけで、それを前提としている限りは、日本人以外には伝わらないという脆弱性を持っているとも言える。

 

最近は一般でもキリスト教界でも、脱日本的な動きがよく見られるようになった。確かに日本的なやり方には色々な問題があるし、課題もあると思う。

けれども、私たちが日本人である以上、日本的な物を排除することが果たして可能なんだろうか。仮にそれを成し遂げたとして、日本的な性質を打ち捨てた日本人というのは、一体何なのだろうか。

 

今、ふつう日本的というと、戦前・戦中、もっとさかのぼると、徳川時代のような全体主義的な風潮を思い浮かべる。

しかしながら、本来的な日本文化というのは、そんな全体主義的な物ではなく、もっと個人主義的な物ではなかったかと思う。

最近は、それを少しずつ取り戻しているのかなと思ってる。

 

話が脱線しすぎた。

この曲自体は、結婚前の男の決意というか、意気込みをさりげなく歌った曲だと思う。僕はさすがに、僕にまかせてくださいとは言えないけど、そんなふうに言ってみたいものだな。

 

日記のようなもの

最近、妻がお布団と友達だ。ポプテピピックのお布団くんみたいだ。

話によると、歯茎が腫れているらしい。たぶん、結婚の疲れが出たんだと思う。
ゆっくり休んでほしい。

女性にとって結婚というのは、男性のそれとは生活に与える影響の幅が全く異なると思う。
苗字も変わるし、生活習慣も変わる。あと住むところも。

大変だと思う。

出張に行ってきた

今日は出張に行ってきた。出張といっても会議のようなもので、今回は鳥取県の某所で行われた。

鳥取と言えば砂漠と梨くらいのイメージだけど、今日行ったところも山に囲まれていた。
まあ、弊社の周りも山しかないので、別に鳥取県を悪く言っているわけではない。

なに話したの?

ほとんど座ってた。

ただ、僕が開発している工程管理システムの話だけした。

実は今、会社でサーバーやネットワーク機器の購入依頼を書きまくって、工程管理をするためのシステムを構築している。

今考えてるのは、作業図面の電子化と納期管理の電子化を実現するシステムだ。
一応HTML5PHPを使ったウェブサービス風だけど、実態は、作業図面の電子化についてはMediawikiそのまま使ってるだけだし、納期管理については、RedmineREST APIをごにょごにょするだけのラッパーのようなものだ。

だから、実際のところ(たぶん)コーディングする量は少ないし、バグもそんなに出ないと思う。
これくらいなら、まあ一人でできるだろうということで。

世の中には、AccessとかFileMakerとか使って自前で作る人もいるみたいだけど、僕は面倒なので、人さまが頑張ってコーディングしたオープンソースを使わせていただく。

オープンソースのカスタマイズとかはよく聞くけど、今やろうとしているようなシステムはあまり聞かないな。なんでだろう。

まとめ

疲れた

タダのオタク

ふと、自分はほんとにタダのオタクに過ぎないなと思った。

 

高専を出ても、自分の専門を生業にしても、やっぱり根はタダのオタクなんです。

 

これは別に悪いことだとは思っていない。社会性があんまりないかもしれないけど、とりあえず生きれてるので感謝だ。

 

こんなのと結婚してくれた人も居る。本当に、幸せだと思う。神様に感謝だ。

日記_20180520

今日のハイライト

今日はペンテコステ礼拝でした。ペンテコステは毎年訪れますが、年によって、迎える時の心境がだいぶ違うなと思いました。

来年のペンテコステも、今の教会で迎えることができますように。

昼食はいつものように、教会でいただきました。私の教会では毎週昼食が出るのですが、これはなかなか大変なことだと思います。
用意されている方々には、頭が下がります。

夕食は、妻がスペイン風オムレツを作ってくれました。
昔から疑問に思っていたのですが、スペイン風オムレツって、スペインでよく食べるのでしょうか。

今日の妻の様子

今日は朝から晩まで、一日中眠そうでした。薬が効いているのか、疲れが出ているのか。
どちらにしても、寝れないよりかはよいですね。

今日見たアニメ

今日は、イヴの時間というアニメ映画を見ました。ロボットと人間の共存というテーマは典型的なSFモノですが、私が好きなジャンルの一つでもあります。映画以外にもメディア展開を行っているようなので、機会があったら見てみたい。

まとめ

よい日だった。

ご報告

皆さんこんにちは。またまたかなり放置してしまいました。

放置している間に、いろいろと変化があったので、報告しておきます。

結婚しました

就職して以来お付き合いしていた女性と、今年の5月に結婚しました。

彼女は統合失調症で、障がい者手帳も持っている、れっきとした(?)精神障がい者です。
私はメビウス症候群の当事者なので、障がい者同士の結婚ということになりますね。

このブログを久しぶりに更新する気になったのも、妻のおかげです。

自分としてはあまり気にしていないのですが、いわゆる世間から見たら、私たちは珍しい夫婦なのだと思います。もしそうだとしたら、珍しい人たちの日常というのも珍しいわけで、それならインターネット上に残しておく意味もあるかもしれません。

私にとっては、他人の日常ほどどうでもいいものはないのですが、もし誰かの役に立つならば、それはうれしいことです。

そういうわけで、面倒くさがりな私ですが、時々はブログを更新することにしました。

会社で新しいプロジェクトを始めました

プロジェクトといっても少人数ですが、会社でサーバーや電子機器の購入申請を出して、業務の電子化を図るプロジェクトを始めました。

システム設計からプログラミングまで一人でこなすのですが、果たしてうまくいくのか...構築の過程でできた副産物は、ここに書くかもしれません。

おわりに

報告は以上です。

今後は、なるべく更新をまめにしたい。

消費される人々

ずいぶん前に別サイトを立ち上げて、何か一つにまとめようと思ったけど、一向にまとまらない。

よく考えると(まあよく考えなくても)、何も書いたり作ったり、読んだりしていないのだから、どこからか自然と何かが湧いてくるわけないのだが。

今日は、消費される人々について考えてみたいと思う。というのも

headlines.yahoo.co.jp

これを読んだからだ。

クリスチャンがAV女優の話かよと思われるかもしれないけど、まあ私もお年頃の男なので。
教会関係の方々には、しかめっ面されそうだけど。

昔から、AV女優の人って、なんでその職業を選んだのか気になってた。
でも、その「気になってた」って、彼女たちを消費する目的だったのかなとも思えてきた。

AV女優という職業は、職業柄、人に消費されるのが仕事のようなものだと思う。
人は色々な目的でAVを見ると思うけど、誰も画面の先に居る女性と知り合いたいなんて
思っていないと思う。

でも、少し興味は持っているんだよね。彼女らがなぜこの職業を選んだかって。
AVの最初のほうにインタビューがあったりするけど、あれはそういうニーズを満たそうとしているのかも。

これって、本人がすすんで話す分には問題ないけど、第三者が必要に聞くのはよくないのかなと思ったりする。

彼女らは、すでに自分の大部分を、消費されるために差し出している。それに加えて、彼女らの心まで消費するために取り出してしまったら、彼女らには何が残るだろう。

この記事を読みながら、そんなことを考えていた。

人間というのは罪深いもので、一度消費するターゲットを決めてしまうと、それが抵抗しない限り消費し続ける。
例えば学校でのいじめがそうだ。いじめる側は、ストレス発散や、自分の不安を鎮めるためにいじめる。
別に、いじめられる子を嫌ってるとか、否定したくて仕方がないほど憎んでいるわけではない。

その証拠に、いじめる相手なんてころころ変わる。仮にいじめる側が学校や職場を辞めたり、最悪死んでも、彼らはいじめをやめない。後悔したとしても、やりすぎて大ごとになったなと思うくらいだ。

彼らは新しい矛先を見つけて、もう一度攻撃を始める。次はあなたがその矛先かもね。

あなたは、消費される人間になってないだろうか。
消費される人間として、人生をあきらめていないだろうか。

我々クリスチャンは、よく「神の愛」を説く。それはよいことだと思うし、正しいことだと思う。
でもね、日本でクリスチャンになるような恵まれた人は、愛のない世界を味わったことがない人も多いのかなと思う。

僕は昔、よく学校でいじめられた。障害が原因の時もあるし、性格が煙たがられた時もある。
僕はそれが悔しくて、自分の手で何かを勝ち取ろうと思って、工学を身に着けた。

文章の練習もしたな。

そのおかげで、今は会社でも、一定の評価を得ていると思う。
まあ、素行や言動が気に入らないと思う人も中には居て、僕を嫌ってる人もいるだろう。
露骨に敵意を示してくる人も、少しは居る。

人と接してると、愛を感じることもあるし、びっくりするくらい冷たいものを感じる時もある。
だから僕は、正直な所、コンピュータと接しているほうが気が楽だ。傷つかなくてよいから。

それでもやっぱり、人と付き合いたいときもある。

そんな時、僕は「人を消費する」ということについて、常に警戒しておかないといけないなと思う。

人に評価されようと思って行動することは、間接的に自分を消費させるように仕向けている。
自分の商品価値を高めようと考えているからだ。

人の陰口を言うのは、人を消費していることになる。

もちろん、正当で客観的に人を評価することが求められる場面もある。
そんな時は、なるべく私情を排除して評価したいものだ。

とにかく、僕は人に消費されたくないし、なるべく人を消費したくない。
協調性というのは、この前提が守られたうえで求められるのではないだろうか。

こういう考えは、日本社会では異端だろうな。
まあ、いいけどね。

※一応おことわり
AV女優という職業は、聖書中では遊女と似たような立ち位置にあると思います。
遊女と言えばラハブを思い出しますね。彼女はイスラエルの偵察部隊を
かくまったので、聖書に名前が記されました。

それだけでなく、マタイによる福音書には、メシアの系図に登場する
一人として名を残しています。

彼女は、神の基準からすれば、断罪されるべき人でした。
しかし、彼女だけではなく僕らもまたその一人です。

人は一度死に、死後神の裁きを受けると聖書は断言しています。
我々が神の法廷に立った時、生前の業績はなんの弁護もしてくれません。

このような罪人に対して、神はひとり子なるイエスキリストをつかわし、何の罪のない彼を十字架につけることによって、私たちの罪を贖ってくださったのです。

神は、あなたを消費するようなお方ではありません。あなたのすべてを理解し、受け入れてくださるお方です。

どうか、この神様と出会い、イエスキリストの救いを、あなた自身のものにできますように。

幸いな人

皆さんは、どんな人が幸いだと思うでしょうか。

私は高専出身で、根っからの技術好きなので、その技術を使って、世界で活躍することが「幸いだ」と考えていました。

確かに、それは幸せかもしれません。若い私たちは、成功を求めるし、成功することこそが人生のゴールだと考えます。

 

このような人たちにとって、死ぬ間際のことなど想像もつきません。明日もあさっても、その次も、10年後も生きてることが当たり前だと思うし、それが一番信じやすい未来だからです。

 

ところが、人生何十年か生きてると、時々どうもそうでないように思える時が、誰にでも訪れます。

今、そのような状況に置かれている人も、きっと居るでしょう。

 

このような人たちに、僕は、聖書が啓示する「幸いな人」の定義を伝えたい。

詩篇32篇の冒頭を見てみましょう。

「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。」
‭‭詩篇‬ ‭32:1-2‬ ‭JA1955‬‬

詩篇32篇は、ダビデが詠んだとされる詩篇です。彼は王として、絶頂期のイスラエルを統治した人物でありましたが、実は大きな罪を抱えていました。

それは、部下であるウリヤの妻、バテシェバと姦淫を犯し、しかもそれを隠すために、ウリヤを前線に出して戦死させたのです。

今、政治家の不倫問題が相次いで報道されていますが、不倫どころの話ではない、もっと大きな罪を、彼は犯したのです。

 

これが日本なら、バレなければ良いじゃないかと思う方もおられるかもしれません。

でも、彼は天地創造の神を知り、その方が正義そのものであられる事をよく知っていました。なぜなら、神はイスラエルに対して、ご自身のご性質を、あらゆる方法で伝えていたからです。

 

そんな彼の所に、ある日預言者ナタンがやってきて、彼の罪を、巧みなたとえ話を用いて言い当てました。

この事を聞いたとき、ダビデはすぐに認め、悔い改めて赦しを得ました。先に挙げた詩篇は、おそらくその時期に詠まれた物だと考えられています。

 

つまり、彼は、自分が赦された事に対して、幸いだと語っているのです。

 

では、聖書が啓示する赦される方法何でしょうか。

 

それは、端的に言えば、イエスキリストが私たちの罪のために十字架で死に、葬られ、三日目によみがえり、天に昇り、今も生きて私たちのためにとりなしの祈りをしてくださっているということを信じることです。

ほとんどの人にとって、これは信じがたい事だと思います。また、別世界の話だと思うことでしょう。

私も5年ほど前、教会に初めて行ったときはそうでした。

しかしながら、不思議な導きで信じたあと、信仰を持ったことに後悔したことは、一度もありません。

あなたも、明日、教会の門を叩いてみませんか。それはあなたにとって、幸いな事だと確信しています。