今日の箇所も、読み方を間違えると誤解してしまう箇所です。
ここでイエス様は、私達の人生が「無風状態」である事を祈れと教えているのではありません。
「試み」と訳されているギリシャ語は、誘惑とも試練とも訳せる言葉です。
私達は、試練と誘惑を混同しがちです。前者は神の義による訓練であり、後者は悪魔が破滅へ導くための罠であることを、もう一度確認しておく必要があります。
だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。 (ヤコブの手紙 1:13 JA1955)
とあるとおり、神様は悪魔による誘惑を、積極的に許すことはありません。
しかし、実際問題、悪魔による誘惑はあります。
この世界で起こることは、全て神様がお許しになったことであります。ヨブ記を見ても分かるように、悪魔の策略でさえも、主がお許しにならなければ実現しません。
私達に降りかかった患難が、神様が訓練のためにお許しになったか、悪魔の策略なのかというのは、なかなか分かりません。
ですから、私達は「試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」と祈るのです。
どうか、私達が悪魔の誘惑に陥り、罪を犯すことがありませんように。むしろ、悪魔の誘惑でさえも、神様の栄光をあらわすきっかけとなりますように。