Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

幸せの基準

あなたの幸せの基準はどこにある?

一個人の幸せの基準は、その人の価値観にある。

お金があれば幸せだと思う人は、預金通帳の桁数が増えれば幸せで、桁数が減れば不幸せだと思う。

物があれば幸せだと思う人は、物であふれて豊かなときは幸せで、物が無くてひもじくなったときは不幸せだと思う。

では、クリスチャンの幸せの基準は何だろうか。

気をつけないと、クリスチャンでさえも、世の中の基準と変わらない指標で幸せを判断してしまうことがある。

私たちはしばしば、祈りの際にいろいろな物を求める。健康、日々の必要、ある種の「賜物」等がそれにあたるのではないかと思う。

もちろん、これらのことを祈ることは必要で、否定されることではない。

しかし、気をつけないと、これらが私たちの「幸せの基準」になってしまう。

主イエスの「幸せの基準」はどこにあった?

我らの主、イエスキリストの生涯を考えてみよう。主は馬小屋で生まれ、大工の息子として育ち、わずか30歳あまりでこの世を去った。

しかも、彼は普通の死に方ではなく、十字架による辱めの死であった。

イエスにはお金も、地位や名誉も、良い伴侶も、定住する家さえ無かった。

では、彼は不幸せだったのだろうか。決してそうではなかった。彼は常に主と共に歩んだ。彼の心にはいつも神に対する信頼と、それに基づく平安があった。

私たちの生涯はどうだろうか?

私たちは、常に何か物足りなさを感じていないだろうか。「もっとお金があれば」、「もっと健康があれば」、「もっと地位や名誉があれば」と、常に何かを得ることに心を注いでいないだろうか。

これは、どん欲である。どん欲という罪によって、私たちが本来求めるべき命の水を見失っている。

そのような人生を歩んでいるうちは、心の中に常に乾きがあるのだ。その乾きを潤すために物を得ても、またすぐに乾いてしまう。

気をつけないと、私たちは人生の大半を、乾きを潤す物を得る事に費やしてしまう。
そんなことに費やせるほど、人の一生は長くない。

われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。

イエスによる解決

主イエスは、人がこのような問題を抱えている事をご存じであった。
それ故、主は十字架の死によって我らの罪の贖いを成し遂げ、神の国への入国ビザを与えてくださったのである。

主イエスを信じた者たちは、この世にいながら、神の国の前味を味わえる存在となる。
神の国とは、この世が物質による支配であることに対して、神による支配が成就する国であると言えるだろう。

私たちは、この世にいながら、神の国の原理に従って生きる二重国籍者なのである。

それ故、私たちはこのように宣言しよう

彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。


しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。


彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。


ピリピ 3:19-21

主を待ち望みつつ、日々を歩みたい。