今日は、私の母教会である舞鶴福音教会に行った。僕に洗礼を授けてくださった牧師先生が、今週を最後に転勤するからだ。
舞鶴という地は、青春時代の楽しかった思い出や、苦しかった思い出、辛かった思い出などがたくさん残っている地だ。
僕は舞鶴に行くたびに、昔のいろいろなことを思い出す。そのたびに立ち止まって、今までの歩みを一々確認しないといけなくなる。
舞鶴に行くと、学生時代の楽しかった思い出に浸りすぎて、なんだか先に進めなくなるような、そんな気分になる。
僕は舞鶴が好きだし、嫌いだ。
そんな舞鶴とも、今日でやっとお別れができた気がする。
もう舞鶴は、僕の活動拠点ではない。
舞鶴という地に抱いている感情は、まるで大恋愛の上失恋した女性に対して抱いている感情のようだ。
懐かしくて恋しいけど、会えば別れを思い出して辛くなる。
僕が一歩先に進むには、舞鶴との別れが必要だった。
7年間通いつめた校舎とも、5年間住んだ寮とも、一年だけ住んだアパートとも、よく行ったお店とも、お別れしないといけない。
さようなら。舞鶴。
舞鶴でやり残してきたこと、解決できなかった問題とも、これで一区切りつけることができるような気がする。
さようなら。舞鶴。
解散する前に、「神ともにいまして」を賛美した。
そうだ。僕たちはどこに居ても、信仰でつながっている。
クリスチャンは、地上では旅人であって、寄留者である。
本来、私たちの故郷は地上にはない。
僕の次なる寄留地は、どこになるのだろう。
今住んでいるところかもしれないし、違うところかもしれない。
隣には誰がいるだろう。
大好きなあの人が居てくれるといいな。
この世を去る時、僕は何を遺していけるだろう。
神の前に立つ時、僕はどんな気分で立てるだろう。
聖書に、このような言葉がある。
信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。
ヘブル人への手紙 11:8
信仰の父と言われるアブラハムは、信仰によって、自分が住み慣れた地からの離別を決断した。
彼は、神の導きを信じたのだ。
僕も、思い切って、舞鶴からの旅立ちを決断しよう。
居住地を舞鶴から他所に移して4年、やっと精神的にも、舞鶴から移住できた気がする。
今いる地で、生きていこう。