今日は、主の祈りの5回目です。
今日の箇所は、自分の罪が赦された確信と、他人の罪を許す寛容さを与えてくださいという祈りです。
今日の箇所を口語訳で読むと、人の罪を許すから、自分の罪が赦されるように読み取れます。
同じ箇所を新改訳で読むと、順番が逆になっていることが分かります。
これは翻訳上の都合だと思うのですが、ここで興味深い発見があります。
よく考えてみると、自分の罪が赦されることと、人を許すというのは表裏一体ではないでしょうか。
私達は、自分には何の功績も無いのに、ただ十字架と復活を信じる信仰によって罪赦されました。
この恵みを受け止める時、「こんな自分も赦されたのだから」と思って、他人を許せるのではないでしょうか。
また反対に、他人を許せた時、自分の赦しの確信も得られるのではないでしょうか。
今日、聖霊に導かれつつ、自分が許せない人がいるか考えてみましょう。
もしそのような人がいるなら、「十字架の恵みによって、自分はその人を許す」と宣言しようではありませんか。
どうか、主の恵みによって、人を許すことができますように。