Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

推し、燃ゆを読んだ

最近話題の推し、燃ゆを読んだ。

芥川賞受賞作品は、昔から気が向いたら時々読んでいるのだけれど、今まであまり良さがわかっていなかった。

ちなみに、芥川自身の作品としては、奉教人の死が一番好きだったりする。

自分は文学については門外漢であるので、今回の推し、燃ゆが文学的に優れているかどうかとか、そういった小難しい話はできない。

ただ、好きな作家とか文体から言えば、いわゆる近代文学と呼ばれているような分野が当てはまるので、芥川賞には昔から興味はあった。

とは言っても、本業はバリバリ工学系の仕事だし、日常的に書いたり読んだりするのは極めて論理的で、悪く行ってしまうとつまらない文章であって、芥川賞を受賞するような文学作品を読む機会はなかなか無い。

今回、そんな重い腰を上げて読んだ「推し、燃ゆ」だったが、結果的に読んでよかったと思っている。

いわゆる、アイドルの「推し」を追っかける女子高生を取り扱った部分も、斬新で確かに面白いけれども、それ以上に文体が非常に心地よかった。

純文学と言えば、人生のいろいろなことについて思い悩み、色々と書いてみたような内容が多いわけだが、今回のテーマはそういったある意味悠長な物ではなく、もっと切羽詰まった物であったように思う。

あかりは趣味とか「好き」という気持ちだけで推しを追っかけていたというよりは、生き方が定まらない自分を、推しを追っかけることによって唐牛で支えているといった感じなのだろう。

だから、友達が推しを乗り換えたことが事実としては理解できるけれども、自分のこととしては受け入れられない。そんな気持ちを感じる。

そんな推しが燃えてしまって引退してしまうのだから、あかりは生き方を見失ってしまうのである。

最後のシーンに、綿棒をぶちまけて拾うシーンがある。あかりの部屋は汚く、綿棒をぶちまけて拾う以外にやることが沢山あるが、どこから手を付けていけば良いのか分からず、そのストレスもあって綿棒を投げたのではないかと思う。

片付けが楽なことをやって、その後始末を自分でやる。あかりが推しを追うという行為は、あかりにとって現実逃避で、本人もそれが分かっていたのかもしれない。高校の勉強や就活といった、やらないといけないことは、小説の最後に記されている部屋の汚さであり、片付いていない洗い物の数々なのかもしれない。

なんだか自分に似てるなと思ったので、この小説は結構気に入った。