Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

創世記1:3

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(口語訳)

神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった(新改訳)

Then God said, “Let there be light”. (NKJV)

ワードスタディー

文脈

天地の「再」創造。その一日目。2節と時間的連続性があると考えられる。

「言われた」という言葉の意味

  1.  原文: "way-yō-mer"
  2. "wa”は接続詞
  3. 英語の"say"と同様、一般的な動詞
  4. 言葉によって、神が天地を創造された事を示す
  5. ヨハネ1:1-3, ヘブル1:3から、「言葉」は受肉前のメシア

「光」という言葉の意味

  1. 創世記1:3が第二コリント4:6で引用(参照?)されている
  2. 文脈的に、この「光」は神の栄光と考えても良いと思う
  3. 太陽はまだ創造されていないので、太陽光ではない。
  4. 混沌とした世界に、一つの秩序が生まれた。神は秩序なる神である。

この箇所に関するトピックス

創造の方法について

神は天地創造において、「言葉」によって実際の創造を行った。「言葉」は後にイエスキリストであると啓示された。

創造において、三位一体の神がそれぞれどのように働いておられるかと言う議論は、非常に難しいと思う。しかしながら、三つの位格すべてが創造に関わったというのは、おそらく間違いではないと思う。

感想

いよいよ天地創造が始まった。私たちは、この天地を創造された神を信じ、そのお方を「我らの父」と呼んでいる。これはすばらしい祝福だと思う。

創造の過程を学ぶことによって、神は実に秩序だったお方だと再認識している。このお方に身を委ねたならば、私たちの人生も秩序だった物になるのだ。

(相変わらずあまりまとまっていない文章だが、あえてそのままにしておく)

参考文献

  1. Bible Hub内の複数の注解書

創世記1:2

地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。(口語訳)

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた(新改訳)

And the earth was without form, and void; and darkness was upon the face of the deep. And the Spirit of God moved upon the face of the waters.(KJV)

ワードスタディー

文脈

Gap Theoryを採用するなら、1節から一定時間が経った後の、地上の状態。

先頭の接続詞について

  1.  原文: "wə·hā·’ā·reṣ,"
  2. "wa"の訳出方で、この節の意味づけが大きく異なる
  3. KJVはAnd, NIVではNowとなっている
  4. Gap Theoryに立てば、Nowと訳出するのが妥当。Nowは「さて」とでも訳せば妥当か

地の状態を表す動詞の意味

  1. 原文:"hā-yə-ṯāh"
  2. wasとも訳せるし、becameとも訳せる(らしい
  3. Gap Theoryを採用するなら、becameと訳出するのが妥当

「茫漠として何もなかった」という言葉の意味

  1. 原文:"ṯō-hū wā-ḇō-hū"
  2. ほぼKJVの意味で問題ないと思われる
  3. voidといえば、プログラマーには通じるはず...
  4. Isaiah 34:11; Jeremiah 4:23に同じ用例
  5. イザヤ34は終末時代の裁きの預言
  6. エレミヤ4はヨシヤ王時代の託宣で、裁きの預言
  7. どちらも裁きとして用いられている

「やみ」という言葉の意味

  1. 「光」が定義されないと、闇は定義されない
  2. 闇を創造した訳でもない(あるいは、闇は光の副産物である)
  3. 光に対する闇と言うよりは、光がない状態を仮定しているのでは?
  4. イザヤ45:7が興味深い。
  5. ここの解釈は、神が悪を創造されたのかどうかと言う議論に使えるのではないか。

「大水」という言葉の意味

  1. 「水」という意味と「深い・深遠なところ」という意味を含んでいる
  2. 一般的には、海をあらわす単語
  3. 堕天と地の堕落の後、地上は海で覆われていた?(聖書において、海は罪の象徴 黙示録13:1, 21:1。ただしこの時点で罪について言及しているかは、なんとも言えない)

「神の霊」という言葉の意味

  1. 原文 "wə-rū-aḥ"
  2. 「神の息」が直訳
  3. これが、キリスト教における「三位一体」の第三位格である「聖霊なる神」だと結論づけるのはやや強引
  4. The word for “wind,” Heb. ruaḥ, Gr. πνεῦμα, Lat. spiritus, was accepted as the most suitable term to express the invisible agency of God. In consequence, it is sometimes difficult to decide whether the word is used literally in its meaning of “wind” or “breath,” or metaphorically in its meaning of “spirit” as the symbol of the invisible operation and influence of the Almighty*1. らしい(適当でごめんなさい)。

「水の上を動いていた」という言葉の意味

  1. 「上」と言うことは、水とそうではない部分との区別がある
  2. 天と地の区別の名残?
  3. 「動いていた」という部分の原文には、鳥が飛び回るイメージがあるらしい

この箇所に関するトピックス

Gap Theoryの妥当性

これは非常に主観的な考えであるけれども、こうやって一語一語丁寧に学んでいくと、Gap Theoryを導入しないとつじつまが合わない部分がある気がする。

特に、水があったこと。水とそうでない部分との区別があったという点は、創造が「無から有」であることを前提とする場合、説明がつかない。

感想

膨大すぎて、理解するのに苦労した。昨日も書いたけど、非常に地道な作業だ。

しかしながら、とても恵まれる。感謝だ。

参考文献

  1. Bible Hub, Barnes' Notes
  2. 中川健一, "ハーベストタイム東京定例会 創世記2-3 アウトライン", 2008.

創世記1:1

はじめに、神は天と地とを創造された(口語訳)

初めに、神が天と地を創造した(新改訳)

In the beginning God created the heaven and the earth.(KJV)

ワードスタディー

文脈

創世記の初め。初めにふさわしく、すべての始まりが書かれている。

「はじめに」という言葉の意味

  1.  原文: "bə·rê·šîṯ"
  2. 時間的な「初め」という意味(創世記10:10, 箴言1:7と同様の語)

「神」という言葉の意味

  1. 原文:"el-o-heem'"
  2. 複数形(三位一体の暗示)
  3. 複数の注解書では、アラビア語の語源との関連を持ち出して、「神」という言葉について説明しようとしている(わたしの英語力ではこのくらいしか分からなかった)
  4. この単語について、注解書では多くのページが割かれている。そのくらい重要な単語なのだと思う。

「創造された」という言葉の意味

  1. 原文:"bā·rā"
  2. 「創造」または「新しい物に存在を与える」という意
  3. 主語は常に「神」
  4. 目的語は様々(物質、生命など)

「天と地」という言葉の意味

  1. 「天」は複数形(鳥が飛ぶ空と、宇宙空間)。
  2. 神は、何もなかった場所に天と地という区別を設け、秩序を形成された

この箇所に関するトピックス

創世記1:1の意味

今日の箇所を、「天地創造の一部」として見るか、「天地創造全体の要約・あるいはイントロダクション」として見るかで、2節以降の解釈が大きく異なってくる。

筆者自身は、字義通り、この一節の終わりで「天と地とが創造された」と考える。そうすると、1節と2節の間に時間的な空白があり、この間に天使の堕落+天地の堕落が起こってしまったと考えられる。

従って、2節以降は、一度堕落した天地の再創造なのである。

この神学を、Gap Theoryと呼ぶ。

進化論の否定

聖書は、この一節によって、進化論を真っ向から否定している。このことからも、聖書は人間の理性や知識に歩み寄った「人間の作品」ではなく、全く啓示的文章であることが分かる。

感想

一節ごとにディボーションノートをつけようと思い立ったものの、いざ始めてみると、実に地道な努力であることを思い知った。

原則として、あまり文章の一つ一つを精査するつもりはなく、あくまで学びの記録としたい。

そういうわけで、間違っている部分があったら、是非教えていただきたい。

 

わたしは今、とてもわくわくしている。これから長く道のりは険しいけれども、すばらしい旅が待っていると信じているから。

参考文献

  1. Bible Hub, Barnes' Notes
  2. 中川健一, "ハーベストタイム東京定例会 創世記2 アウトライン", 2008.

統合失調症と生きる(支援者・パートナーとして)

今日も統合失調症に関するお話をしよう。

統合失調症の予後において一番避けたいのが、症状の再発(再燃)である。

統合失調症の発症や再発について、現在では、ストレス脆弱性モデルと呼ばれる考え方が主流となっている。

このモデルでは、統合失調症の発症や再発は、患者本人が元々持っている素質と、一定以上のストレスによって引き起こされると考えられている。

患者本人が元々持っている素質とは、たとえば遺伝的な物であったり、脳の構造であったりする(詳しくは分かっていない)。

一定以上のストレスとは、その人が受容できる以上のストレスのことである。これは人によって異なる。

つまり統合失調症の発症や再発は、患者本人の素質と、キャパシティ以上のストレスによって引き起こされるのである。それはちょうど、ダムが決壊するように破壊的で、突然に起こる。

さて、以上の説明から、ストレスが発症や再発に大きな影響を与える事を納得いただけたと思う。

特に、一度発症した患者のストレスへの脆弱性は、発症前より格段に高くなっている事が知られている。

すなわち、再発を予防するためには、本人へのストレスを最小限にすることが不可欠である。

 

では、本人へのストレスを最小限にするにはどうすればよいだろうか。

ここである人は、本人に何もさせず、過保護にするという答えを導き出す。またある人は、本人の言うとおりに何でもしてあげようとの答えを導き出す。

 

実はこれらは、両方とも「高EE」と呼ばれる不適切な接し方である。

EEとは、Expressed Emotion(感情表出)の略であり、代表的な例として

  1. 批判
  2. 敵意
  3. 情緒的な巻き込まれすぎ

等がある。

1,2については、比較的わかりやすいと思う。病気の症状であることを理解できずに、「まただらだらして」と言うのは批判であるし、「おまえのせいで不幸だ」というのは敵意である。

しかし、3. についてはなかなか理解が難しい。先に挙げた過保護などは、情緒的な巻き込まれすぎに分類できると思う。

情緒的な巻き込まれすぎを起こしている人は、ある意味で非常に慈愛にあふれている。その人を憐れに思い、何とかしてその人のためになろうとしているのだから。

しかしその先にあるのは、病気の再発と支援者の落胆や失望という、共倒れの現実である。

誰にだって、意志や夢はある(統合失調症の当事者はこれが持ちにくかったり、表現しづらい事はあるかもしれないが)。それに反する決定を押しつけられたら、誰だってストレスを感じるだろう。

統合失調症や他の精神疾患を持つ方々と親密な関係を築こうとする場合、常に「高EEになってないか」を自問自答する必要がある。

 

以上の議論から、統合失調症の当事者の方に対して私たちができることは、「適度な距離感で、見守りつつ必要な助けをすること」である。

こう書いてしまえば簡単に見えるが、実際はそうもいかない。陰性症状がひどい時を見れば心配にもなるし、希死念慮や幻聴の事を聞くと不安になる。その心配や不安を相手に伝えないというのは、至難の業だ。

 

支援者も人間であるから、完璧ではない。従って、時には高EEに当てはまるような行動をとってしまうし、本人に対して辛く当たってしまうこともあるかもしれない。

支援者にとって、そして当事者にとってもっとも必要なことは、余裕を持つこと・完璧を求めないことではないだろうか。

人と生きるというのは、マニュアルに従って、業務的に遂行するような事ではない。相手の障害や特徴を理解しつつも、それ以外は他の人と同じように接すればよいのではないだろうか。

今日書いたことは、もちろん理想論である。私たちは不完全だから、いろいろな失敗を通ると思う。それでも、その一つ一つが、神様のご計画の一部であることをわたしは信じる。こう信じる事が、心の余裕にもつながると思っている。

最後に、このような事を考え・書くきっかけをくれた理加さんと、神様に感謝したい。

見えない障害について考える

今日、理加さんと「見えない障害」について話し合っていた。

理加さんは統合失調症と、それに伴う認知機能障害を抱えている。

見えない障害を理解するというのは、非常に難しい。人はどうしても、外見が問題なければ、その人が内面に障害を抱えていたとしても、理解できない。

たとえ理解したように思っていても、それは本当の理解じゃないこともある。

 

僕は、この一週間でそれを目の当たりにした。

彼女は、確かに内側に障害を持っている。

努力とか気の持ちようでどうにかなる物ではなく、それは確かに障害なのだ。足や手が動かないのと同じ。

 

事故か病気で足を失った人に、自分の足で歩けと言う人は居ない。無理だと分かっているからだ。

下半身不随になった人に、歩けと言う人は居ない。どう考えても無理だから。

でも、精神に障害を持った人に、普通の人のように振る舞うことを求める人は山ほど居る。あるいは、求めてしまっている状態は山ほどある。精神とは見えない物で、その見えない物に障害があったとしても、外見や少し関わったくらいでは分からないからだ。

 

僕自身、二年近く統合失調症の当事者とお付き合いしていながらも、本当の意味で精神疾患を理解していなかったのかも知れない。

そう思うと、精神障害者である当事者の方々に対して、支援や理解を示しているように見せかけて、実際の所分かってない状態が多いのかも知れない。

この投稿を最後まで読まれた方は、もう一度「見えない障害」について思いを巡らしてほしい。新しい発見があるかも知れない。

 

追記

見えない障害がある人でも、工夫はできるかもしれない。

 

例えば車椅子を使うように、何かアシストできる方法があるかもしれない。

 

僕はそれを考えていきたいし、工学で解決できることがあれば、やってみたい。

聞いてみたいこと

いつか顔と顔を合わせて神様と話せたなら、聞いてみたいことがたくさんある。

どうしてこんな悲しいことがあるの?どうしてこんな辛いことがあるの?

愛しているひとに、なにもしてあげられない。どうして僕は無力なの?

 

神様はなんとお答えになるだろうか

 

ヨブという人が、同じ質問を投げかけたことがある。その答えは、神様からの質問攻めだった。

神様の御心のすべては僕たちには分からないし、分かるはずがない。それでも、僕たちは知っている。

あの十字架上で苦しまれたイエスを。そのイエスが復活された事を。そしてやがて、すべての解決のために再び来られることを。

 

こんな大きな愛を示してくださったお方が、僕たちに良い物を与えてくださらないはずがない。

僕らは時々、それを自分に言い聞かせている時がある。神を呪いそうになる時があるからだ。

 

それでも、神は真実で愛でなんだ。それは、僕たちの状況や受け取り方で変わるような、脆い物ではない。

宇宙が始まる前から、時が始まる前から、神様は存在するのだ。

 

僕たちに、苦しみの意味を全部知ることはできない。それでも、僕たちは神に信頼し、生きる。

 

そう思うと、生きる希望が湧いてくる気がする。

笑顔の魅力

今日は、エッセイというか、特に何でもない随筆を書いてみようと思う。論理の飛躍もあると思うけど、たまにはそんな文章もいいかなと思う。

わたしは、メビウス症候群という障害を持っている。この病気の(社会生活を送る上で)最大の課題は、顔面神経麻痺にあると思う。

笑顔という要素は、予想以上に対人関係を円滑にする潤滑剤として機能する。この潤滑油がないと、なかなか良好な関係を築くのは難しいかもしれない。

 

とは言うものの、わたしは様々な良い人間関係に恵まれてきたし、現在もとてもすばらしい女性との交際もできている。

もっとも、わたしが恵まれているだけかもしれない。無表情な自分を怖がったり気持ち悪く思ったりしない人々に、わたしは恵まれているのだろう。

 

この文章を書こうと思ったのも、その女性の笑顔を見て、とても幸せな気持ちになったからだ。

それと同時に、僕は彼女に、表情としてのうれしさを伝えられないことに気がついた。このことに関しては、残念に思う。

 

それでも、表情以外で「うれしい」気持ちを伝えることもできると信じている。

それは、たとえば言葉だったり、態度だったりする。

 

「顔で笑って心で泣く」という言葉がある。わたしはこれができない分、人に対しても自分に対しても、そして神様に対しても正直でいられるのかもしれない。

 

最後に。笑顔は確かに魅力的だけど、いつも笑顔で居る必要は無い。

あなたは、そのままで十分魅力的なのだから。

 

なんだか恥ずかしい文章になったけど、そんな感じです。