Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

創世記1:6

神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。(口語訳)

And God said, Let there be a firmament in the midst of the waters, and let it divide the waters from the waters. (KJV)

文脈

天地創造の二日目。まだ地上は茫漠として何もなく、ただ昼と夜があるだけだった。

ワードスタディー

おおぞら(firmament)

この言葉は、七十人訳聖書をラテン語訳した物を、更に英語に輸入した単語。ギリシャ語の「イデア」と同じような意味とのこと。

ヘブル語の意味には、広い平面とか、平面の広がりを示す意味があるとのこと。エゼキエル1:22にも同様の表現があり、この箇所では、み使いの姿を示すために用いられている。

どうやら詩的な言葉であり、これを明確に定義するのは難しそうだ。

おそらく、「第一の天」つまり大気をまとった空中を示すのではないか。

水と水

地上には海があり、その上に大気がある。このとき、おそらく地球全体が水蒸気の膜で覆われていたと考えられる(後の大洪水では、この水蒸気が一気に地上に降り注いだのではないか)。

ワンポイント

天地創造において、「分ける」という行為は非常に重要である。神はこの世界を混沌から秩序へと導き、ご自身の最高傑作である人間を創造するための準備を行われた。

今、私たちが当たり前のように享受している自然は、神によって創造された物であることを、もう一度思い起こしたい。

感想

このところ「分ける」という動作を頻繁に取り上げている気がする。

このことについて黙想していると、いろいろと気がつくことが多い。

一つ言えることは、神は清濁併せ呑むような、何でもありのお方ではない。常に完全な義なるお方であり、善と悪とを正しく裁かれるお方なのである。

そのようなお方が、私たちを愛し、ひとり子なるイエス様を罪の贖いとしてまで、私たちと交わり続けようとして下さるというのは、非常な驚きである。

創世記1:5

神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。(口語訳)

神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。(新改訳)

And God called the light Day, and the darkness he called Night. And the evening and the morning were the first day. (KJV)

文脈

光が創造されて、それが闇と区別された。この箇所は、その光と闇に対して、名前を与えている。

ワードスタディー

光を...闇を...

  1. この時点では、天体は創造されていなかった事に注意
  2. 天体の動きがなくても、昼と夜があったのだろう
  3. 昼と夜は自然現象の結果ではなく、明らかに神の意志によって創造された

名づけられた

  1. ヘブル的には、名前は対象そのものを示す。
  2. 名付けの親が、対象に対するすべての権威を持つ
  3. 神は自然に対して、すべての権威を有する
  4. 自然を支配できるのは、神だけである

夕があり、朝があった

  1. 聖書においては、日没から一日が始まる。

第一日

「一日」をどうとらえるかで諸説がある

  1. 文字通り24時間説
  2. モーセが啓示を受けた日
  3. 7日目を安息日とするために、モーセが決めた枠組み

24時間と考えるのが、一番自然な気がする。

感想

神が昼と夜を創造されたことに、改めて気がついた。昼と夜は自転や公転の結果ではなく、あらかじめ神がデザインされたものなのだ。

現代ほど、昼と夜の区別が曖昧になっている時代はない。「夜には休む」という、当たり前のことについて、もう一度考え直すべき時代なのかもしれない。

神は煌々と輝き続ける街を見て、何を思っておられるのだろうか。

創世記1:4

神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。(口語訳)

神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。(新改訳)

And God saw the light, that it was good: and God divided the light from the darkness. (KJV)

ワードスタディー

文脈

神が創造した「光」の評価と、光と闇の分割。

良しとされた

  1. 以降の天地創造の記事では、二日目を除いて、神が評価している
  2. 神は創りっぱなしのお方ではない

分けられた

  1. それまでは光と闇が混在していた?
  2. ミルトンの「失楽園」では、一つの球体のような微粒子が、光と闇との半球に分割されたと表現しているらしい
  3. いずれにせよ、この段階で、神は明確に「光」と「闇」を分けたのである
  4. ヨブ38:19が関連箇所に挙げられている。神ご自身が、ヨブに光と闇とを分けられた事を語っている
  5. 4.の箇所では、光と闇が擬人化されている。

感想

光と闇とは同居できない。エペソ5:8に「光の子らしく歩きなさい」とあるが、私たちもどちらかを選択する必要があるのだ。

毎日、光を選択し続ける人生を送れますように。

参考文献

  1. Bible Hub内の複数の注解書

創世記1:3

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(口語訳)

神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった(新改訳)

Then God said, “Let there be light”. (NKJV)

ワードスタディー

文脈

天地の「再」創造。その一日目。2節と時間的連続性があると考えられる。

「言われた」という言葉の意味

  1.  原文: "way-yō-mer"
  2. "wa”は接続詞
  3. 英語の"say"と同様、一般的な動詞
  4. 言葉によって、神が天地を創造された事を示す
  5. ヨハネ1:1-3, ヘブル1:3から、「言葉」は受肉前のメシア

「光」という言葉の意味

  1. 創世記1:3が第二コリント4:6で引用(参照?)されている
  2. 文脈的に、この「光」は神の栄光と考えても良いと思う
  3. 太陽はまだ創造されていないので、太陽光ではない。
  4. 混沌とした世界に、一つの秩序が生まれた。神は秩序なる神である。

この箇所に関するトピックス

創造の方法について

神は天地創造において、「言葉」によって実際の創造を行った。「言葉」は後にイエスキリストであると啓示された。

創造において、三位一体の神がそれぞれどのように働いておられるかと言う議論は、非常に難しいと思う。しかしながら、三つの位格すべてが創造に関わったというのは、おそらく間違いではないと思う。

感想

いよいよ天地創造が始まった。私たちは、この天地を創造された神を信じ、そのお方を「我らの父」と呼んでいる。これはすばらしい祝福だと思う。

創造の過程を学ぶことによって、神は実に秩序だったお方だと再認識している。このお方に身を委ねたならば、私たちの人生も秩序だった物になるのだ。

(相変わらずあまりまとまっていない文章だが、あえてそのままにしておく)

参考文献

  1. Bible Hub内の複数の注解書

創世記1:2

地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。(口語訳)

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた(新改訳)

And the earth was without form, and void; and darkness was upon the face of the deep. And the Spirit of God moved upon the face of the waters.(KJV)

ワードスタディー

文脈

Gap Theoryを採用するなら、1節から一定時間が経った後の、地上の状態。

先頭の接続詞について

  1.  原文: "wə·hā·’ā·reṣ,"
  2. "wa"の訳出方で、この節の意味づけが大きく異なる
  3. KJVはAnd, NIVではNowとなっている
  4. Gap Theoryに立てば、Nowと訳出するのが妥当。Nowは「さて」とでも訳せば妥当か

地の状態を表す動詞の意味

  1. 原文:"hā-yə-ṯāh"
  2. wasとも訳せるし、becameとも訳せる(らしい
  3. Gap Theoryを採用するなら、becameと訳出するのが妥当

「茫漠として何もなかった」という言葉の意味

  1. 原文:"ṯō-hū wā-ḇō-hū"
  2. ほぼKJVの意味で問題ないと思われる
  3. voidといえば、プログラマーには通じるはず...
  4. Isaiah 34:11; Jeremiah 4:23に同じ用例
  5. イザヤ34は終末時代の裁きの預言
  6. エレミヤ4はヨシヤ王時代の託宣で、裁きの預言
  7. どちらも裁きとして用いられている

「やみ」という言葉の意味

  1. 「光」が定義されないと、闇は定義されない
  2. 闇を創造した訳でもない(あるいは、闇は光の副産物である)
  3. 光に対する闇と言うよりは、光がない状態を仮定しているのでは?
  4. イザヤ45:7が興味深い。
  5. ここの解釈は、神が悪を創造されたのかどうかと言う議論に使えるのではないか。

「大水」という言葉の意味

  1. 「水」という意味と「深い・深遠なところ」という意味を含んでいる
  2. 一般的には、海をあらわす単語
  3. 堕天と地の堕落の後、地上は海で覆われていた?(聖書において、海は罪の象徴 黙示録13:1, 21:1。ただしこの時点で罪について言及しているかは、なんとも言えない)

「神の霊」という言葉の意味

  1. 原文 "wə-rū-aḥ"
  2. 「神の息」が直訳
  3. これが、キリスト教における「三位一体」の第三位格である「聖霊なる神」だと結論づけるのはやや強引
  4. The word for “wind,” Heb. ruaḥ, Gr. πνεῦμα, Lat. spiritus, was accepted as the most suitable term to express the invisible agency of God. In consequence, it is sometimes difficult to decide whether the word is used literally in its meaning of “wind” or “breath,” or metaphorically in its meaning of “spirit” as the symbol of the invisible operation and influence of the Almighty*1. らしい(適当でごめんなさい)。

「水の上を動いていた」という言葉の意味

  1. 「上」と言うことは、水とそうではない部分との区別がある
  2. 天と地の区別の名残?
  3. 「動いていた」という部分の原文には、鳥が飛び回るイメージがあるらしい

この箇所に関するトピックス

Gap Theoryの妥当性

これは非常に主観的な考えであるけれども、こうやって一語一語丁寧に学んでいくと、Gap Theoryを導入しないとつじつまが合わない部分がある気がする。

特に、水があったこと。水とそうでない部分との区別があったという点は、創造が「無から有」であることを前提とする場合、説明がつかない。

感想

膨大すぎて、理解するのに苦労した。昨日も書いたけど、非常に地道な作業だ。

しかしながら、とても恵まれる。感謝だ。

参考文献

  1. Bible Hub, Barnes' Notes
  2. 中川健一, "ハーベストタイム東京定例会 創世記2-3 アウトライン", 2008.

創世記1:1

はじめに、神は天と地とを創造された(口語訳)

初めに、神が天と地を創造した(新改訳)

In the beginning God created the heaven and the earth.(KJV)

ワードスタディー

文脈

創世記の初め。初めにふさわしく、すべての始まりが書かれている。

「はじめに」という言葉の意味

  1.  原文: "bə·rê·šîṯ"
  2. 時間的な「初め」という意味(創世記10:10, 箴言1:7と同様の語)

「神」という言葉の意味

  1. 原文:"el-o-heem'"
  2. 複数形(三位一体の暗示)
  3. 複数の注解書では、アラビア語の語源との関連を持ち出して、「神」という言葉について説明しようとしている(わたしの英語力ではこのくらいしか分からなかった)
  4. この単語について、注解書では多くのページが割かれている。そのくらい重要な単語なのだと思う。

「創造された」という言葉の意味

  1. 原文:"bā·rā"
  2. 「創造」または「新しい物に存在を与える」という意
  3. 主語は常に「神」
  4. 目的語は様々(物質、生命など)

「天と地」という言葉の意味

  1. 「天」は複数形(鳥が飛ぶ空と、宇宙空間)。
  2. 神は、何もなかった場所に天と地という区別を設け、秩序を形成された

この箇所に関するトピックス

創世記1:1の意味

今日の箇所を、「天地創造の一部」として見るか、「天地創造全体の要約・あるいはイントロダクション」として見るかで、2節以降の解釈が大きく異なってくる。

筆者自身は、字義通り、この一節の終わりで「天と地とが創造された」と考える。そうすると、1節と2節の間に時間的な空白があり、この間に天使の堕落+天地の堕落が起こってしまったと考えられる。

従って、2節以降は、一度堕落した天地の再創造なのである。

この神学を、Gap Theoryと呼ぶ。

進化論の否定

聖書は、この一節によって、進化論を真っ向から否定している。このことからも、聖書は人間の理性や知識に歩み寄った「人間の作品」ではなく、全く啓示的文章であることが分かる。

感想

一節ごとにディボーションノートをつけようと思い立ったものの、いざ始めてみると、実に地道な努力であることを思い知った。

原則として、あまり文章の一つ一つを精査するつもりはなく、あくまで学びの記録としたい。

そういうわけで、間違っている部分があったら、是非教えていただきたい。

 

わたしは今、とてもわくわくしている。これから長く道のりは険しいけれども、すばらしい旅が待っていると信じているから。

参考文献

  1. Bible Hub, Barnes' Notes
  2. 中川健一, "ハーベストタイム東京定例会 創世記2 アウトライン", 2008.

統合失調症と生きる(支援者・パートナーとして)

今日も統合失調症に関するお話をしよう。

統合失調症の予後において一番避けたいのが、症状の再発(再燃)である。

統合失調症の発症や再発について、現在では、ストレス脆弱性モデルと呼ばれる考え方が主流となっている。

このモデルでは、統合失調症の発症や再発は、患者本人が元々持っている素質と、一定以上のストレスによって引き起こされると考えられている。

患者本人が元々持っている素質とは、たとえば遺伝的な物であったり、脳の構造であったりする(詳しくは分かっていない)。

一定以上のストレスとは、その人が受容できる以上のストレスのことである。これは人によって異なる。

つまり統合失調症の発症や再発は、患者本人の素質と、キャパシティ以上のストレスによって引き起こされるのである。それはちょうど、ダムが決壊するように破壊的で、突然に起こる。

さて、以上の説明から、ストレスが発症や再発に大きな影響を与える事を納得いただけたと思う。

特に、一度発症した患者のストレスへの脆弱性は、発症前より格段に高くなっている事が知られている。

すなわち、再発を予防するためには、本人へのストレスを最小限にすることが不可欠である。

 

では、本人へのストレスを最小限にするにはどうすればよいだろうか。

ここである人は、本人に何もさせず、過保護にするという答えを導き出す。またある人は、本人の言うとおりに何でもしてあげようとの答えを導き出す。

 

実はこれらは、両方とも「高EE」と呼ばれる不適切な接し方である。

EEとは、Expressed Emotion(感情表出)の略であり、代表的な例として

  1. 批判
  2. 敵意
  3. 情緒的な巻き込まれすぎ

等がある。

1,2については、比較的わかりやすいと思う。病気の症状であることを理解できずに、「まただらだらして」と言うのは批判であるし、「おまえのせいで不幸だ」というのは敵意である。

しかし、3. についてはなかなか理解が難しい。先に挙げた過保護などは、情緒的な巻き込まれすぎに分類できると思う。

情緒的な巻き込まれすぎを起こしている人は、ある意味で非常に慈愛にあふれている。その人を憐れに思い、何とかしてその人のためになろうとしているのだから。

しかしその先にあるのは、病気の再発と支援者の落胆や失望という、共倒れの現実である。

誰にだって、意志や夢はある(統合失調症の当事者はこれが持ちにくかったり、表現しづらい事はあるかもしれないが)。それに反する決定を押しつけられたら、誰だってストレスを感じるだろう。

統合失調症や他の精神疾患を持つ方々と親密な関係を築こうとする場合、常に「高EEになってないか」を自問自答する必要がある。

 

以上の議論から、統合失調症の当事者の方に対して私たちができることは、「適度な距離感で、見守りつつ必要な助けをすること」である。

こう書いてしまえば簡単に見えるが、実際はそうもいかない。陰性症状がひどい時を見れば心配にもなるし、希死念慮や幻聴の事を聞くと不安になる。その心配や不安を相手に伝えないというのは、至難の業だ。

 

支援者も人間であるから、完璧ではない。従って、時には高EEに当てはまるような行動をとってしまうし、本人に対して辛く当たってしまうこともあるかもしれない。

支援者にとって、そして当事者にとってもっとも必要なことは、余裕を持つこと・完璧を求めないことではないだろうか。

人と生きるというのは、マニュアルに従って、業務的に遂行するような事ではない。相手の障害や特徴を理解しつつも、それ以外は他の人と同じように接すればよいのではないだろうか。

今日書いたことは、もちろん理想論である。私たちは不完全だから、いろいろな失敗を通ると思う。それでも、その一つ一つが、神様のご計画の一部であることをわたしは信じる。こう信じる事が、心の余裕にもつながると思っている。

最後に、このような事を考え・書くきっかけをくれた理加さんと、神様に感謝したい。