いわゆる「障害者」というのは、産業革命後と、それの発展に伴う合理主義的思考によって生み出されたレッテルではないかと思う。
以前の記事で、私は統合失調症の女性とお付き合いしているということを書いた。今日、ふと僕自身が、彼女を「精神障害者」というレッテルで見ているのではないかと気付かされた。
「1人の人間として」関わっていると思っていながらも、どうしてもレッテル貼りをして関わってしまう。私たちには、そんな弱さがあるのではないだろうか。
実際のところ、精神障害といっても、実に多様である。統合失調症と一言に言っても、いろいろな病状がある。
レッテル貼りをすること自体が無意味だということは、理屈ではわかっているつもりである。それでも、私たちは、無意識のうちにレッテル貼りをしているのかもしれない。
そして、もしかするとこれは個人の問題ではなく、社会全体の問題なのかもしれない。
私は、目の前にいる一人の人を、全くレッテル貼りせずに見れるだろうか。差別せずに見れるだろうか。
神様、私の心の中を清めてくださり、純粋な愛をもって人と関われるようにしてください。
そんな祈りをした、日曜日の夕方。
今日のご飯は、和食っぽい惣菜を集めたご飯だ。感謝していただこう。