私は、聖書に啓示されている神を信じる。
この神は、天地を創造された神であって、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。また、イスラエルをエジプトから導き出した神でもある。
更に、救い主イエス・キリストの父なる神であり、やがて来るべき終末時代において、厳格な裁きを行われる神である。
私と神との出会いは、私が高専在学中に起こったことであった。当時の指導教員がクリスチャンで、研究室の学生である私を誘ったのである。
当時の私にとって、まさにその指導教員が神であった(このような指導法が、聖書的だとは到底思えないが)。その彼が誘うのだから、私に拒否権はなかった。
更に、それが学会の帰りの、夜行バスから降りたすぐの出来事である。なおさら断りにくいので、私はとりあえず同行することにした。
初めて行った教会については、あまり覚えていない。確か少し肌寒い季節で、眠気を堪えながら入った会堂がとても暖かかったことだけを覚えている。
眠い中暖かい会堂に入って、牧師のよくわからないお話を聞いたら、当然眠くなるにきまっている。
気がついたら献金の時間になっていて、とりあえず100円くらいを入れた覚えがある。
一度教会に行ったという実績ができてしまえば、帰ってから地元の教会に誘われても断りにくい。結局、私は当時住んでいた学生寮から、自転車で30分くらいの教会に毎週通うことになった。
はじめのうちは、聖書の言っている罪だとか救いだとかが、全くわからなかった。
そもそもなぜ自分が罪人なのかさえ、よくわからなかった。
しばらく教会に通っていると、聖書の学びをしないかとのお誘いが来る。これについても、私は当初あまり乗り気ではなかったが、上述の指導教員との関係もあって、とりあえず行くことにした。
何度か聖書の学びを重ねていくうちに、いよいよ通うのが面倒になってきた。そんな時出てきたのが、暖かいカレーと美味しいサラダである。
当初私が住んでいた学生寮では、毎日給食が出されていた。その給食は、平日はそれなりに美味しいのだけれども、休日の昼ごはんははっきり言って美味しくなかった。
予算合わせのような質素な昼食が多かったのである。
当時まだ育ち盛り(?)だった私は、頭のなかで、寮食と教会で出されるカレーを比較したのである。そうすると、当然カレーに軍配が上がったので、私は聖書の学びを続けることにした。
そうして、なんとか聖書の学びを続けているうちに、私の中に良心の呵責が生まれてきた。私が何気なく、今まで許容していたことが、実は神の基準から見れば悪いことだと分かってきたからだ。
これがわかったとき、たしかに自分には、キリストの十字架の贖いが必要なのかもしれないと思った。そうして感情的には、洗礼を受ける決心をしたのである。
しかし、学びから時間が経って思い直してみると、学びの最中に感じたような「救いの必要性」を、感覚的に思い出せないのである。こうなってしまうと、自分は単にこの良心の呵責から逃れるための手段として、救いを逃げるための手段と考えているのではと不安になってしまう(もちろんそのような側面もある)。
そんな思いを持ちながら、ローマ人への手紙を読んでいたとき
ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです
ローマ人への手紙 7章17節
という御言葉を発見した。
私はこの御言葉によって、良心が責め立てられるようなことを行ってしまうという問題の本質は、自分が持っている罪の性質にあることを理解した。また、聖書の他の箇所から、この罪の性質は生まれ持って備わっているものであるとも理解した。
私にとって、この説明は非常に分かりやすかった。私は先天性の身体障害を持っているが、自分にとってはごく普通のことなのである。それと同じように、原罪も「ごく普通に」持ち合わせていたのである。
原罪が根深いものだとすると、やはり良心の呵責から逃れるだけでは不十分で、この問題の本質を探る必要があると考えるのが自然である。
そういうわけで、更に聖書を読み考えた結果、原罪について次のような結論に至った。
- 仮に、原罪を先天性の障害のようなものだと考えると、他人と比較しないとそれを定義することができない。健常者と言われる人を基準にしないと、障害者を定義できないのである。
- そうすると、原罪を持ち合わせてない人間はいるのか。
- 神である(当時はされるという仮定で考えていたかもしれない)イエス・キリストがそうである。
- キリストや神の啓示である(とされる)聖書を基準にしないと、原罪を定義できないのである。
今まで原罪というものを理解せずに生きてきたのは、単に比較する対象がなかっただけだと知ったとき、なぜだかとても腑に落ちた覚えがある(ちなみに、これは生きている間だけ通用する言い訳である。死んだあとにこのことを持ち出して、自分は罪がないとは言えない。なぜなら、自然から神の啓示を読み取ることができるからだ)。この理解によって、良心の呵責や、今まで生きてきた人生の間違いに理由付けがなされたからかもしれない。
ここまで理解したならば、あとは必然的に、イエスキリストの十字架と復活による罪の贖いを信じ、罪の状態から抜け出す道を選択しないだろうか。
もしこれを選択しないなら、提示されている「良い生き方」が「良い」と分かっていても実践できないという矛盾を抱えることになる。これはつまり、私の良心と、そうではない心の一部が分裂を起こしているのである。私にとってこれはとても不可解で不快な状態であり、到底「人間ってそんなもんだよ」と妥協することはできなかった。
そんな状態が「人間」というものなら、なるほど人間とはすでに破綻していて、滅びに至るしかないのだ。
ここまで思考が進んだとき、私はやはり、イエス・キリストの十字架を信じることが必要だと確信した。
上記のような思考ができたのは、神の助けがあったからだと思う。今日は極めて論理的に説明したつもりだが、やはりどこかで論理の飛躍があると思う。それが、神の「啓示」なのだろう。これがないと、イエスを神と告白することはできない。
このような思考を裏付けるかのように、次の御言葉が与えられた。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
ローマ人への手紙 7:25
たとえ分裂したままの状態であっても、イエス・キリストを信じれば、その人は「罪の状態」から解放されるのである。罪に留まらざるを得ない、惨めな状態から開放されるのである。
これがキリストの救いだと確信したとき、私は洗礼を受けることを、頭と心で、確信を持って決心したのである。
この教えは、他の宗教にあるような、諦めの境地としての悟りや、偽りの教理による救いではないと確信したのである。これが本物だとわかったとき、私は人生の指針を得たように思った。
あれから4年ほどになるが、その間に色々な試練があったし、精神科のお世話になったこともあった。それでも、この救いの確信は揺らぐばかりか、今なお日々確固たるものとなりつつある。
私は、イスラエルの神を信じて本当に良かったと思う。