子供というものは、常に大人になろうとする。中学生を小学生扱いしたら怒るし、高校生を中学生扱いしても怒る。
ラノベとかそういう界隈において、中学生くらいのキャラが成人設定されるなんてよくある話題だけど、実際のところそんな例はほとんどないよね。
ちなみに、シュタゲゼロの比屋定さんとか、結構好みです。
大人というものは、気が付いたらなっているものなのかもしれない。中学生が高校生になるような、そういうありふれた成長を重ねるうえで、気が付いたら大人いなっている。
そうなれば一番良いのだけれども、必ずしもそういう人ばかりではない。思春期って本当に多感で、ついうっかり大人になり損ねちゃう人もいる。
そうなると大変だ。周りが普通にやってることができなくなる。そんな状態でも、周りは年相応を求めるから、非常に生きにくい。
運よく普通に成長して、普通に大人になれた人も、それはそれで大変だ。気が付いたら就職してて、気が付いたら部下や家族ができる。
そうなれば、もちろん嫌なこともしないといけないし、自由奔放にふるまってもいられなくなる。
ああ。大人というのはなんと窮屈で、退屈な生き物なのだろうか。
日本は、レールから外れた人生が生きにくいとかいうけれども、レールに沿い続ける人生もそれなりに生きにくい。
思うに、誰しも自分が置かれた状況において、多少の生きにくさを背負って生きていくのだろう。
将来の人生設計とか、そのための自己投資とか、そういう意識高い系の考えは疲れる。
知識を多く蓄えたところで、それを使う機会に恵まれなければ、なんの意味もない。ただの自己満足だ。
神を第一としない人生というのは、なんと大変で、なんと窮屈だろうか。
その終わりが死だとするなら、人生に意味などないと言ってしまいたくなる。
私は人生に半ば絶望しながらも、それでも人生を生きたい。
絶望の先には、神による平安が待ち受けていると信じるからだ。
生きていくというのは、楽なことばかりじゃない。
むしろつらいことのほうが多い。
それでも、その生活の中で、創造主なる神に力と、誉と、賛美とを帰することができるとすれば、それはよい人生なのだろう。
自己実現は結構なことだとは思うが、僕には面倒なことのように思う。
面倒なことは嫌いだ。
ぼちぼち生きよう。