最近LGBT発言といい、相模原市の事件と言い、障害者を「社会的に役立つかどうか」の評価軸でしか考えられない人が多い。
結局の所、人が人に対する評価を行う上で、いわゆる生産性というか、社会への貢献度が占める割合は多い。無職に対する風当たりはきつい。
この評価軸は、障害の当事者や、その家族にも多かれ少なかれあると思う(あるというか、認めて容認せざるを得ないというか)。今の資本主義社会に生きているわけだから、社会システム的にそれはやむを得ない。
最近、行き詰まり感を常に覚えるような世の中だから、尚更仕方ない面もある。
これを前提にしたとしても、こういう考えを見聞きしたとき、僕が真っ先に言いたくなるのが、題名に書いた言葉だ。
障害は個性と言う言葉は、手垢にまみれててあまり好きではない。実情に合わない事も多い。
ただ、障害というのはその人の一部でしかないことを忘れてはいけない。精神障害だろうが知的障害だろうが、それは同じ。
私たちは、障害を持っている人を、その障害の症状と一般的に想像される人物像に当てはめてはいけないし、当事者も、障害によって自分を規定してはいけない。
それは、冒頭で話したように、社会に好都合か不都合かで人を評価するのと大して変わらない。
最近は特に、発達障害の知名度が上がってきて、誰でも自分を発達障害と疑うような状況になってきている。
かつての自分がそうだったように、発達障害であることを望むような心境にもなる。それが逃げ道となってしまう。
メビウス症候群だってそうだ。
私たちは、気を付けないといけない。知らず知らずのうちに、障害と社会的立場をリンクさせてしまわないように。
そう思う、今日この頃。