Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

自分の特性について考える

突然ですが、僕は散髪が少し怖い。

見ず知らずの人に、髪を触られるというのがどうも苦手だ。

こういうのは発達障害に多いらしい。僕も、一時期発達障害を疑ったこともあった。

でも、今では仮に発達障害だったとしても、それはそれでいいかなと思っている。今のところ日常生活に問題ないし、周りにも「そういう人」として受け入れられている。

これはとても感謝なことだと思う。

以前、「そういう人」として受け入れられない環境にいたことがある。その時は、なんとか受け入れてもらおうと努力したり、自分の特性を理解してもらおうとしたりした。

でも、悲しいもので、人の考えというのは驚くほど変わらない。少なくとも、他人が何か働きかけて変えられるものではない。

これは少し考えれば当たり前のことである。人は数十年かけて培ってきた自分の判断基準を、そう簡単に覆したりはしない。それはすなわち、その人のこれまでを全否定する作業だから。

それなら、周りとくらべて「ちょっと違う」人はどうすればいいのか。

答えは簡単で、「ちょっと違う」ことを貫き通せば良いのだ。

これを行うには、その人の中に独自の価値観を構築する必要がある。その人の価値観が周りに左右されるものであったなら、「ちょっと違う」ことを貫き通すことは難しい。

僕は、周りに左右されない価値観を得た。それが、キリスト教であり、聖書が提示する価値観だ。

もちろん周りとの調和は必要であるが、私にとって最も大切な価値観は「まず神の国と神の義とを求めよ」である。

周りが簡単にできることが、私にはできないということが幾つもある。でも、それで悩む必要はない。「まず神の国と神の義とを求めよ」のあとには、「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」からである。

人より劣った部分があっても、それと同じくらい、あるいはそれ以上に人より優れた点があると、僕は信じたい。

それは僕自身に限ったことではなく、すべての人々に優れた点があると信じたい。

社会というのは、残念ながら減点方式であることがほとんどだ。

そんな社会の中でも、僕達クリスチャンは、減点方式ではなく加点方式で物事を見たい。

それが、多くの人と違った特性を持っている人たちや、障害や病気を持っている人たちに優しい社会を作っていくのではないか。そう思っている。

まず自分自身に、そして自分の周りの人に対して、「加点方式」で接したいなと思った今日このごろ。