今日は、私の通っている教会で、新しい礼拝の取り組みが始まった。
教会学校を、礼拝の中に取り込むという試みである。
教会になじみのない方にとっては、何を言っているのかさっぱりだと思うので、ここで少し説明しようと思う。
一般的な教会では、以下のようなタイムスケジュールで礼拝を行っている。
このタイムスケジュールだと、子供は大人の礼拝が始まってから終わるまで、2時間ほど待たないといけない。
小さな子供に、2時間もおとなしくして待っていなさいというのは、とても難しい要求だと思う。実際に、子供は待ちきれなくなって途中で帰ってしまう事が多い。
また、このタイムスケジュールの場合、教会学校から礼拝に移行することが、きわめて困難である事も問題の一つである。
子供の頃から「礼拝は大人が出る物」として育った子供たちにとって、教会学校の延長線上としての礼拝出席は、敷居が高い。
事実、教会学校から礼拝に続けて出席する、信者でない親を持つ子供は、非常に少ない。
これはもちろん、単なるスケジュールの問題だけでは無いと思う。とにかく、スケジュールを含めて、教会学校と礼拝があまりに乖離しているのだろう。
そこで我々は、新しい試みとして、教会学校と礼拝との合流を実行したのである。
今日がその初日であったのだけれども、やはりすぐに支持を得るのは難しそうだ。ある人にとっては、「教会は牧師先生の話を聞く所」という認識が強く、その時間を削ることに抵抗を持ってしまう。
もちろん、反対意見が出ることは想定していた。むしろ、反対意見が出ることを期待していたほどである。
反対意見が出ない集団というのは、それはもう集団として死んでいると思う。そのような状態に陥る過程には、意見を出すことを暗に牽制する空気があるとか、そもそも案を出す気が出ない状態が生じていると思う。
それは組織にとって致命傷であり、彼らに未来はないだろう。
教会も一種の「組織」である。従って、教会でも非常に人間的な問題が生じる場合がある。
「でも」という表現には語弊があって、「だからこそ」という表現を使うべきかもしれない。教会ほど、ある意味「自分はどうしようもない」事を自覚した人が集まっている場所はない。
しかし、同時に他の組織には無い、特別な一致が与えられている事も事実である。
その一致こそが、信仰による一致である。そして、それを与えてくださるのが、聖霊である。
今日は、ペンテコステ礼拝だった。図らずも、私たちはペンテコステの週に新しい事をはじめ、早速課題や問題に直面した。
初代教会も、ペンテコステ後様々な問題に直面したことを思い出す。
「問題が無い」ということは、すなわち「現状からの変化がない」事を示すと私は思う。
今まさに、私が通っている教会には、変化が訪れようとしている。この変化を、良い物と変えられるかどうかは、一人一人の信仰にかかっているのではないだろうか。
この教会の上に、神様の恵みと導きがありますように。