Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

なにか満たされない思い

もうすぐ、結婚して一年が経とうとしている。

結婚当初は、それはもう嬉しかった。

ただ、最近は状況がちょっと変わってきた。なんとなくうまくいかないというか、ぎこちないのだ。

新しい環境に慣れてきて一年ほどすると、はじめに見えなかった問題というか、課題がいろいろと見えてくるものだ。
それは別に、今初めて経験しているのではなくて、以前にもいろいろと経験している。

例えば、高専入学後にも、今感じているような気分になった事がある。
頑張って入学したけど、これからどうしていこうって。
あるいは、なんだか思っていたものと違うなって。

あるいは、入社して二年目とも似てる。仕事には慣れたけど、これがずっと続くのかなって。
それは辛いなと思ったり。

もっと言えば、クリスチャンになってからの数年も、こういった感覚に似たものを感じるのかもしれない。

まあ要するに、私は変化に弱い面もあるけど、でもどこかで変化を期待して、変化から刺激を受けようとしているのだろう。

少し昔に、自分はADHDではないかと本気で悩んで、精神科に通った事があった。
結論としては、確かにその傾向はあるけど、日常生活に困るほどではないだろうとのこと。

ここで明らかになったのは、やっぱり僕は、ある程度の生き辛さを抱えているのだなということ。

最近、このことをすっかり忘れていたというか、封印していた気がする。
自分は普通の人間なんだって。

普通という言葉は嫌いだが、日本社会においてはかなり重要だと思う。

適応障害」という病名があるが、案外この適応障害というのは、過度に適応しようとした結果なのかもしれない。

昔、通っていた精神科の先生に聞いたことで、今でも心に残っていることがある。

僕が自分がADHDではないかと悩んでいたとき、彼は、精神疾患の病名は、その人を説明するものではないと言った。
病名はあくまで、その人が困っていることを解決する目印であって、その人の性質を決めつけるものではないと。

今の日本というのは、とかく生き辛い。だから、地位とか職業とか障害とかに自分のアイデンティティを確立しようとしたがるが
それでは救われないのだ。

今の状態で生き辛さを感じて、別のペルソナを探し出してそれに適応しても、すぐにまた生き辛さを感じてしまうのかな。

今の時代というのは、個人主義的風潮が強いように見えて、それでも昔ながらの日本的な縛りが強い、非常に難しい時代だと思う。

こういう時代に正気を保っているには、あらゆることに関わらずに自分に閉じこもるか、自分と思考が似た人間と馴れ合うしか無いのだろうか。

とりとめのない文章になってしまったが、とりあえず試行錯誤が必要だと思う。