Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

教会に疲れてしまった

まあ、疲れていなかった時期のほうが少なかった気もするけど、最近とうとう愛想を尽かしてしまった。

愛想を尽かしてしまった理由が信仰上の相違とかなら良かったのだけれど、今回は全くそんなのじゃなくて、役員会とかその他諸々の事務関係での疲弊だった。

役員会はアホみたいに長いわりに、事前に資料でも配っとけば確認だけで済むような議題に延々と時間を使ったり、事務関連では通帳のコピーに手書きで諸々を書き込んでいくとかいういつの時代だよみたいなやり方してる。

これを老人方が勝手にやって完結してるなら文句は言わないが、次世代への引き継ぎとか言って、同じやり方を我々の世代に強要するから手に負えない。
まずは今のやり方を・・・とは言うけど、それを延々と時間をかけて説明される身にもなってほしい。休日を溶かさないでくれ。

これが仕事なら百歩譲ってまだ我慢できるが、いわゆる「奉仕」とか言う無賃労働である。奉仕を否定するつもりはないが、せめてもっと効率が良いやり方でやってほしい。

思うに、キリスト教会と言うのは、良くも悪くもこの「奉仕」に甘えているのではないかと思う。奉仕があるから教会が成り立っているというのもそれはもちろん肯定するが、奉仕が無償の労働と化すとたちが悪い。

奉仕する側も奉仕される側も、無償だから成果とか効率について全く考えないか、考えてもあまり重要視しない。例えば何か印刷物を発注した際も、追加料金を少し払えば印刷時に教会名くらい印刷してくれるだろうに、わざわざシールを別で作ってそれを貼り付けるという「奉仕」がある。

おそらく、今年の年間聖句が入稿時には決まっていないからなのだろうが、そんなの決まったときに印刷して、各自に渡して貼ってもらえば良い話である。それにもかかわらず、印刷物にシールを貼るという「奉仕」が、労働力が無償であることでいつまで経っても見直されないのである。

要するに、人件費周りのコスト意識が無いのだ。彼らは原価だけ見て、そちらが安ければ人件費など全く気にしない。だってどれだけ使ってもタダなんだから。

これがブラック体質でなくて何だろうか。

こんなブラック体質な教会奉仕であるが、昔の信徒が多い時代にはなんとかなっていた。これは昔の会社と同じである。ところが今はどうだろうか。会社もそうだが、教会にも若い人が居ないのである。そうなると、数少ない自分たちのような若者に、この無償労働が回ってくるのである。

奉仕=労働という考えは、正直なところ教会内ではタブーな考えと言っても過言ではない。奉仕は喜んで行うものと教え込まれるからだ。奉仕に対価を求めるような人間は、資本主義に毒された人間なのである。

しかし、やっぱり奉仕は労働なのである。特に会計とか役員会ってのは労働なのである。労働なら労働らしく、日々品質の向上と業務の改善を図るべきである。

品質の向上とか業務の改善を図らずに、昔からのやり方を愚直に真面目に遂行するだけでは、今の時代では生き残ることはできない。これは教会でも同じではないだろうか。教会は甘えてはいけない。