Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

声優が自分より年下だったときの気持ち

最近見てるアニメで、自分より年下の声優が出てくることが多くなってる気がする。

いのりんこと水瀬いのりさんもそうだけど、水星の魔女に出てる市ノ瀬加那さんとか、ぼっち・ざ・ろっくに出てる青山吉能さんも年下だ。

こういう経験を積み重ねていくと、自分の年齢について嫌でも考えるようになる。自分は今年で31歳になるが、10年前に思い描いていた31歳になれているだろうかと。

今の自分は、うまく行ってる部分もあれば、うまく行ってない部分も当然ある。特に人間関係については、うまくいかなかったり、ストレスを溜め込みがちになってる気がする。

先に挙げた声優さんも、僕らから見たら今をときめくイケイケ声優だけれども、彼女らなりの苦悩や葛藤があると思う。僕と同じような悩みを抱えているかも知れない。

自分の弱さと言うのは、たとえ家族であってもあまり見せないことが多い。人々は、自分以外の人前ではペルソナを使い分けるものである。

このペルソナの使い分けは、本来心の救済である宗教活動でも生じることがあると思う。その宗教が望む信者を演じてしまうのだ。

自分は今まで、教会ではそんな感じで過ごしてきたのかなと思った。そりゃしんどいよね。

こうなった経緯はまあ色々とあると思うが、そもそも教会に行き始めた頃からこんな感じだった気がする。

僕は教会に行き始めたのは、当時指導教員だった高専教員に誘われてのことだった。まあこの時点でお察しなのだけれども、どう考えても指導教員と学生という関係性ではなかったと思う。今考えると、異様な関係だったなと思う。

当時はとにかくその教員に絶対服従的な意識があって、その延長線上である教会での振る舞いについても、教会で良しとされる振る舞いを常に心がけていたと思う。

こんな歪な状況ではあったが、僕はイエス・キリストを信じた事自体は、何ら間違いではなかったと思っている。これは、自分の人生にとって間違いなく良いことであったと思う。

けれども、教会生活はこの限りではなかった。確かに教会ではいろいろな経験ができて良かったとは思うが、僕はあまりにも教会の活動について無批判でありすぎたと思う。

無批判であった理由としては、キリスト教会自体が自己批判に不寛容であるという点が大きい。キリスト教信仰自体は自己批判を行わないと成り立たない信仰であることに対して、キリスト教会は自己批判について非常に不寛容であるというか、そもそもその習慣がない。

これは日本人一般的にも言えることかもしれないが、前向きで健全な批判と、組織を破滅させるであろう破滅的な批判との区別をつけることができないのだ。あらゆる批判の類のものは、即ち組織やコミュニティへの敵対であると認識する。非常に封建的な組織となっている。

私が所属している教会はプロテスタントであるが、プロテスタントとは名ばかりで、宗教改革前の封建的なカトリック教会のようである。

このような中での教会生活は、非常に窮屈なものであった。何か大きなことをするには役員会を通す必要がある雰囲気はあるが、その詳細について明確には示されていない。信徒個人個人の教会での活動における裁量はほぼ無いに等しく、何をするにも牧師か役員会の了承を得る必要がある。このような状況で、万人祭司説に基づいた能動的な活動ができるだろうか。

そもそも、裁量を与えるための教育についても機能不全となっている。今の時代、一つ一つの出来事なんてのはググれば出てくるが、それが自分たちの信仰に照らし合わせて正しいか正しくないかを判断するには、信徒と言えども基本的な神学は必要である。それなのに、教会学校のカリキュラムは道徳や倫理の授業の劣化版みたいなものとなっており、その機能を果たせていない。

この結果、何を仕出かすかわからない信徒には、裁量を与えられないというのが実情なのである。こんな組織に将来性があるのだろうか。

ああ。文句を挙げていけばキリがない。本当はこの思っていることをもっと実際の活動にフィードバックしたかったのだが、ちょっと鬱憤をためすぎてもう関わるのが精神的に厳しくなってしまった。

また関われる日が来るのだろうか。それは神様のみが知ることだ。