Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

創世記1:8

神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。(口語訳)

And God called the firmament Heaven. And the evening and the morning were the second day. (KJV)

文脈

天地創造の2日目について、続けて学んでいる。今日の箇所は二日目の最後で、神が名前をつけられる箇所である。

ワードスタディー

天(Heaven)

ヘブル語で "šā·mā·yim;"。Skyとも訳せる。実際、英語訳聖書で「Sky」と訳している聖書も多くある。

新約聖書パウロは、天が多層になっているように解釈していると読めるが、モーセの時代にもそのような考えがあったかどうかは不明。

いずれにせよ、現代における「大気中」と、「宇宙空間」と、「天国(神が居られる場所)」を含んだ言葉であると考えて良いと思う。

名付けられた

聖書において、「名」はその名を持つ対象の実存を表す。

つまり、「名」をつけるというのは、その対象への支配権と、統治権を有するということである。

感想

こうやって厳密に聖書を読んでいると、いろいろな発見がある。これからも続けたい。

機動戦艦ナデシコを見た

ゆぅげっとばーにんっ!

とっても今更だけど、機動戦艦ナデシコを見た。

その筋の人には名作中の名作であるが、どうもスレイヤーズとかエヴァとかの影に隠れて、いまいち目立たない気がする。

僕自身も、今まで面白いと聞いては来たけれども、結局見ないままだった。

どうせルリルリかわいいのアニメだろうとさえ思っていたからだ。

 

しかし、蓋を開けてみると、実に奥が深い。相転移エンジンや重力波等、SFの基本とも言えるメカ設定はしっかりしているし、世界観もしっかりしている。

それでいて、世界観の根底に恋愛と大昔のロボットアニメ(ゲキガンガー)があったりと、ちょっと砕けた部分もあって、固くなりすぎていない。

 

キャラ設定も、非常にしっかりしている。主人公は暗い過去を持っているが、それを重すぎると感じないくらいの明るさがある。

ヒロインはとぼけたようなキャラだが、やるときはやる秀才である。

ロボットアニメにお約束な熱血キャラもちゃんといるし(あっけなく死んでしまうわけだが)、女たらしのようなキャラもいる。

 

とにかく見ていて飽きない。僕は、一気に最終話まで見るというアニメの見方が好きなんだけれども、それをしても、最後まで飽きなかった。

飽きなかったどころか、物足りなさを感じたくらいだ。

 

ナデシコの終わり方には賛否両論あるみたいだけど、僕個人としては、含みをもたせたまま終わるのもいいのではと思っている。

 

ただ、本当に好きな作品は、最後まで書き切ってほしいと思うかもしれない。僕はフルメタルパニックが好きだけど、あれは最後までやって欲しかったし(実際やってくれた)、続編も読みたい(これはアナザーでやってくれてるかもしれない。まだ読んでないけど)。

 

とにかく、良い作品だった。90年代のアニメは、良作が多い。

内省的ということに関する随筆

僕は、夏目漱石芥川龍之介が好きだ。

僕が彼らと出会ったのは、高専2年生の頃だった。授業で、夏目漱石の「こころ」を読んだときの衝撃は、今でも覚えている。

それからというもの、僕は「内省的である」事が、一種の頭の良さをあらわすステータスと考えるようになった。

これはとても危険な事である。なぜなら、いくら内省したところで答えなんて出てこないからだ。

 

「答えが出ない」というのは誤りかもしれない。内省の先にある答えは、「自分が悪い」という答えだ。

妥協無き内省の結果は、自殺か鬱だと思う。非常に高い水準で(時に聖書の基準で)、まじめに内省をしていたら、結論は死ぬしかなくなる。

僕は一度、このような状況に陥った事がある。僕の場合妥協したので、死ぬことは無かったが。

当時の僕は、こんな事を考えていた気がする。

死んだところでどうなるだろうか。死ぬしかない人間が死んだところで、果たしてその死に何か贖罪的な意味があるだろうか。

たとえば犯罪人がその罪のために死ぬなら、なるほど当然の報いを受けて死ぬことになるかもしれない。あるいは、その死には犯罪予防的な意味があるかも知れない。

だが、他人から見ればきわめて善良な人間が、自分の内省の結果から出た自責感によって死んだところで、その死にいったい何の意味があるだろうか。

そしてこの考えの結論として、イエスキリストの十字架と復活を持ってきていたのではあるが、実はどうも腑に落ちていなかった(クリスチャンであったけれども)。

今思い返すと、このときは、十字架と復活を単なる論理的整合性をとるために持ち出していたように思う。

もちろん、十字架と復活は、そんな矮小化されるようなものではない。もっと雲の中から光が差すような、明確な解決策である。

 

僕は、自分の内省の整合性をとるためだけに、十字架を利用していた時期があったのだ。

十字架の救いはそんなものではなく、もっと絶対的な解決であるのに。

 

内省をするというのは悪いことではないが、時に自己完結するような錯覚に陥る危険性がある。

僕たちが救われるには、イエスキリストの十字架という、絶対的外部要因が必要なのである。内部完結型クリスチャンでは、本当の救いは見いだせない。

 

今、自分の中で、今日書いた事がとても腑に落ちている。

もしこの拙文を最後まで読んでくださった方が居るなら、僕の考えが少しでも良い影響を与えるといいなと思っている。

創世記1:7

そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。(口語訳)

And God made the firmament, and divided the waters which were under the firmament from the waters which were above the firmament: and it was so.(KJV)

文脈

二日目の創造では、水と水とを分ける業が行われた。7節はそれに関する詳細を記している。

いわゆる、同義的対句法と言えると思う。

ワードスタディー

おおぞらの下の水とおおぞらの上の水

「おおぞらの下の水」が海で、「おおぞらの上の水」が、地球を覆う水蒸気の膜だと考えられる。

「おおぞらの上の水」が、大洪水の時落ちてきた水であるとの説を聞いたことがある。本当かどうかは分からない。

手法の研究

旧約聖書には、今日の箇所のように、二行が同じ事柄を説明している文章がよく出てくる。

このような手法を「対句法」と呼ぶ。これはヘブル文学においては非常に一般的な手法であるらしい。

聖書を読んでいると、突然詩の形式になる事がある。普通、散文に詩を織り交ぜることはあまりないように思うが、聖書(あるいはヘブル文学)は例外である。

創世記を読み解く上で、対句法の理解は非常に重要だ。

感想

以前、この箇所はいったい何を言っているのか分からなかった。6節で水を分けているのに、今日の箇所でもう一度分けているからだ。

しかし、「対句法」という光に照らしてこの節を解釈したとき、この節はより鮮やかに二日目の創造を描き出す、すばらしい節になる。

聖書は、前提知識をもって読むと、普通に読む以上に神様からの恵みを受ける事ができる書物だと思う。

これからも、いろいろと学んでいきたい。

創世記1:6

神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。(口語訳)

And God said, Let there be a firmament in the midst of the waters, and let it divide the waters from the waters. (KJV)

文脈

天地創造の二日目。まだ地上は茫漠として何もなく、ただ昼と夜があるだけだった。

ワードスタディー

おおぞら(firmament)

この言葉は、七十人訳聖書をラテン語訳した物を、更に英語に輸入した単語。ギリシャ語の「イデア」と同じような意味とのこと。

ヘブル語の意味には、広い平面とか、平面の広がりを示す意味があるとのこと。エゼキエル1:22にも同様の表現があり、この箇所では、み使いの姿を示すために用いられている。

どうやら詩的な言葉であり、これを明確に定義するのは難しそうだ。

おそらく、「第一の天」つまり大気をまとった空中を示すのではないか。

水と水

地上には海があり、その上に大気がある。このとき、おそらく地球全体が水蒸気の膜で覆われていたと考えられる(後の大洪水では、この水蒸気が一気に地上に降り注いだのではないか)。

ワンポイント

天地創造において、「分ける」という行為は非常に重要である。神はこの世界を混沌から秩序へと導き、ご自身の最高傑作である人間を創造するための準備を行われた。

今、私たちが当たり前のように享受している自然は、神によって創造された物であることを、もう一度思い起こしたい。

感想

このところ「分ける」という動作を頻繁に取り上げている気がする。

このことについて黙想していると、いろいろと気がつくことが多い。

一つ言えることは、神は清濁併せ呑むような、何でもありのお方ではない。常に完全な義なるお方であり、善と悪とを正しく裁かれるお方なのである。

そのようなお方が、私たちを愛し、ひとり子なるイエス様を罪の贖いとしてまで、私たちと交わり続けようとして下さるというのは、非常な驚きである。

創世記1:5

神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。(口語訳)

神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。(新改訳)

And God called the light Day, and the darkness he called Night. And the evening and the morning were the first day. (KJV)

文脈

光が創造されて、それが闇と区別された。この箇所は、その光と闇に対して、名前を与えている。

ワードスタディー

光を...闇を...

  1. この時点では、天体は創造されていなかった事に注意
  2. 天体の動きがなくても、昼と夜があったのだろう
  3. 昼と夜は自然現象の結果ではなく、明らかに神の意志によって創造された

名づけられた

  1. ヘブル的には、名前は対象そのものを示す。
  2. 名付けの親が、対象に対するすべての権威を持つ
  3. 神は自然に対して、すべての権威を有する
  4. 自然を支配できるのは、神だけである

夕があり、朝があった

  1. 聖書においては、日没から一日が始まる。

第一日

「一日」をどうとらえるかで諸説がある

  1. 文字通り24時間説
  2. モーセが啓示を受けた日
  3. 7日目を安息日とするために、モーセが決めた枠組み

24時間と考えるのが、一番自然な気がする。

感想

神が昼と夜を創造されたことに、改めて気がついた。昼と夜は自転や公転の結果ではなく、あらかじめ神がデザインされたものなのだ。

現代ほど、昼と夜の区別が曖昧になっている時代はない。「夜には休む」という、当たり前のことについて、もう一度考え直すべき時代なのかもしれない。

神は煌々と輝き続ける街を見て、何を思っておられるのだろうか。

創世記1:4

神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。(口語訳)

神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。(新改訳)

And God saw the light, that it was good: and God divided the light from the darkness. (KJV)

ワードスタディー

文脈

神が創造した「光」の評価と、光と闇の分割。

良しとされた

  1. 以降の天地創造の記事では、二日目を除いて、神が評価している
  2. 神は創りっぱなしのお方ではない

分けられた

  1. それまでは光と闇が混在していた?
  2. ミルトンの「失楽園」では、一つの球体のような微粒子が、光と闇との半球に分割されたと表現しているらしい
  3. いずれにせよ、この段階で、神は明確に「光」と「闇」を分けたのである
  4. ヨブ38:19が関連箇所に挙げられている。神ご自身が、ヨブに光と闇とを分けられた事を語っている
  5. 4.の箇所では、光と闇が擬人化されている。

感想

光と闇とは同居できない。エペソ5:8に「光の子らしく歩きなさい」とあるが、私たちもどちらかを選択する必要があるのだ。

毎日、光を選択し続ける人生を送れますように。

参考文献

  1. Bible Hub内の複数の注解書