Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

新年明けました

今更ですが新年明けました。一応喪中なのでおめでとうとは言わないテスト。

年末年始は、自分の方の親に顔を出すなど、まあ普通の大人のような日々を過ごしておりました。
驚いたのは、帰省したとき、親に一人前になったなと言われたこと。とうとう自分も大人になってしまったか。

まあ、数千万円のローンを背負って所帯持ちになれば、大人にならざるをえない。むしろ大人にならないとまずい。

僕の中で大人というのは、物事を客観的に見れる人だと思うんですよね。間違っても老害ムーブかます壮年とか、昔はよかったとか言ってる懐古厨じゃない。もちろん無理に自分より若年層に合わせようとする人間でもない。

「大人になる」という立場の変化を客観的に把握して、それらしい振る舞いで行動することができる。多分大人ってのはそういう人なんだろう。

大人ってのは、自分の考えや思いと、自分が期待されているであろう役割のすり合わせをちゃんとできる人だと思うんです。でもそれって、若いときから自分の考えをしっかり持ちつつも、社会との接点を持ち続けるという当たり前の経験が必要になってくる。

社会に流されてもいけないし、社会と自分の考えが異なってるからと言って、自分の考えを誇示してもいけない。その間をうまいこと見つけ出さないといけないのだ。

そんな生きづらい世の中は嫌だって?だったら宗教をやれば良い。あれは自分の世界に閉じこもってふんぞり返るだけで認めてもらえるから(もちろんそうじゃない人もいるが)。

大人になるってのは、いわば社会というゲームのルールを十分理解した上で、そのプレイヤーとしてどんな振る舞いをするかってのを、ある程度戦略的に考えられるようになった人だと思う。

ただ、この社会ってゲームのルールは厄介で、遊戯王みたいに禁止カードがコロコロ変わったり、ルールが一部修正されることが多々ある。禁止カードを公式戦で使えば負けてしまうし、ルールの修正を知らないと場合によっては不利になる。社会というのはそういうものだ。

社会って意外と、空気とか雰囲気みたいな言語化できないものではなくて、ルールのような確かなもので運用されている。ただ、そのルールが言語化されていない部分が多く、結果として雰囲気のような不文律に支配されているように見えるだけだ。

今年もこんな感じで生きていきたい。