イスラエルの民は、捕囚の地で苦役に苦しみ、体は疲れ果てていたでしょう。
また、自分たちの解放の祈りが聞かれないように見える事から、神様が休んでおられるような思いになった事でしょう。
そのような民に、イザヤは今日の預言を語ったのです。
このみ言葉のポイントは、「主を待ち望む」事だと思います。
主を待ち望むという言葉は、この預言が語られた時代では、捕囚からの解放を指していたと思います。
あるいは、来たるべきキリストの来臨を指していたかもしれません。
新約聖書にも、同じようなみ言葉があります。
だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。 (コリント人への第二の手紙 4:16 JA1955)
このように、主を待ち望むという事は、聖書全体を用いて語られる希望です。
今日、もしかしたら目の前に希望が無いかのように思うかもしれません。
ですが、主なる神様は愛なる神様ですから、私たちを絶望のままで放置される事はありません。
この事を信じて、主を待ち望む生活をさせて頂きましょう。