Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

異端思想との戦いが生んだ言葉 ― コロサイ人への手紙に込められたパウロのメッセージ

導入:キリストは「生まれた」のか?

コロサイ人への手紙1章15節には、キリストについて次のように記されています。

御子は、見えない神のかたちであって、 すべての造られたものに先だって生れたかたである。 (コロサイ人への手紙 1:15、口語訳聖書)

この「先だって生れた」という表現は、キリストが神によって創造された最初の存在、すなわち「被造物」であるかのような誤解を招く可能性があります。しかし、キリスト教の核心教義である三位一体論では、子なるキリストは父なる神と等しく、創造された存在ではないとされています。

本稿では、この聖句が書かれた歴史的背景と、原語であるギリシャ語の意味を深く掘り下げることで、「先だって生れた」という表現の真意を探ります。そして、この一節がキリストの神性を揺るがすものではなく、むしろその卓越性を力強く宣言していることを明らかにします。

歴史的背景:コロサイの教会とグノーシス主義の脅威

この手紙が書かれた当時、コロサイの教会は「グノーシス主義」と呼ばれる異端思想の影響下にありました。この思想を理解することが、聖句の意図を正しく読み解く鍵となります。

グノーシス主義とは

グノーシス主義は、1〜2世紀の地中海世界で広まった思想で、次のような特徴を持ちます。

  • 二元論: 霊的な善の世界と、物質的な悪の世界を明確に区別する。
  • 特別な知識(グノーシス)による救済: 救いは信仰や行いではなく、秘密の知識を得ることで達成されると考える。
  • 複雑な宇宙論: 至高神と物質世界の間に、多数の霊的存在(アイオーン)を想定する。

彼らは物質を悪と見なしたため、創造主である旧約聖書の神を、至高神より劣った不完全な存在と見なす傾向がありました。

グノーシス主義が提示したキリスト観

グノーシス主義は、正統的なキリスト観を大きく歪めるものでした。

  • キリストの神性の否定: イエスを、至高神と人間を繋ぐ多数の霊的仲介者の一人に過ぎないと位置づけ、その絶対的な神性を否定しました。
  • 受肉の否定(仮現説): 物質である肉体を悪と見なすため、神聖なキリストが実際に肉体を持つことはありえないと考え、その姿は幻影に過ぎないと主張しました。

このような思想は、キリストを被造物の一つに貶め、その救い主としての完全性を根本から揺るがすものでした。

コロサイ人への手紙の執筆目的

使徒パウロは、こうしたグノーシス主義の誤った教えから信徒を守り、キリストの真の姿を伝えるためにこの手紙を書きました。その目的は以下の通りです。

  1. キリストの絶対的卓越性の宣言: キリストが単なる霊的仲介者ではなく、万物の創造主であり、教会のかしら(頭)であることを明確にする。
  2. キリストによる救いの完全性の強調: 救いのために、キリスト以外に特別な知識や他の霊的な力は一切不要であることを教える。
  3. 健全な信仰に基づく実践的な生活への勧め: 誤った教えに惑わされず、キリストにしっかりと根ざした生活を送るよう促す。

この文脈において、コロサイ1:15は、グノーシス主義への強力な反論として書かれたのです。

聖句の分析:コロサイ人への手紙1章15節

口語訳の「先だって生れた」という表現がなぜ誤解を招きやすいのか、多角的に分析します。

各国語翻訳の比較

この箇所の解釈の難しさは、様々な翻訳に表れています。以下は代表的な英語訳の比較です。

翻訳 バージョン
firstborn over all creation New International Version (NIV)
supreme over all creation New Living Translation (NLT)
firstborn of all creation English Standard Version (ESV)
firstborn of every creature King James Bible (KJV)
first-born Son, superior to all creation Contemporary English Version (CEV)
Primal Source of all creation Worrell New Testament

多くの翻訳が "firstborn" という語を用いていますが、NLT訳の "supreme"(至高の)やCEV訳の "superior to"(〜より優れた)のように、単なる出生順ではなく、地位や権威の優越性を示す訳も存在します。これは "firstborn" が持つ意味の多義性を示唆しています。

ギリシャ語原典からの考察:「πρωτότοκος (prōtotokos)」

原語であるギリシャ語「πρωτότοκος (prōtotokos)」を理解することが、最も重要です。この単語は「第一の、最初の」を意味する protos と、「生む」を意味する tikto の合成語です。

文字通りには「最初に生まれた者」を意味しますが、聖書の文脈、特にユダヤ文化において、この言葉は単なる出生順以上の意味を持ちました。「長子」は、相続における特権的な地位、すなわち一族の支配権や権威を象徴する言葉でした。

つまり、「πρωτότοκος」は「時間的な最初」だけでなく「地位における第一、すべてのものに対する主権者」という意味合いで用いられるのです。

パウロがこの言葉を選んだのは、キリストが被造物の中で最初に生まれた存在だからではなく、すべての被造物に対して主権を持つ、卓越した支配者であることを宣言するためでした。事実、続く16節では「万物は、御子にあって造られたからである」と述べられており、キリストが被造物ではなく創造主であることが明確にされています。

結論

コロサイ人への手紙1章15節の「先だって生れたかた」という口語訳での表現は、字義通りに受け取るとキリストを被造物と誤解させる危険性をはらんでいます。

しかし、この手紙がグノーシス主義の「キリストを被造物の一つと見なす思想」への反論として書かれたという歴史的背景と、ギリシャ語「πρωτότοκος」が持つ「長子としての主権」という意味を考慮すれば、その真意は明らかです。

この聖句は、キリストが時間的に最初に「生まれた」ことを述べているのではありません。むしろ、すべての被造物を超越した主権者であり、万物に先立って存在する神そのものであることを力強く宣言しているのです。したがって、この一節は三位一体の教えと矛盾するどころか、子なるキリストの神性と絶対的卓越性を証しする、極めて重要な聖句であると結論付けられます。

バベルの塔とは何か?創世記からペンテコステまで貫く神学と現代への教訓

1. バベルの塔の物語 — 原初史の終章として

創世記11章に登場する「バベルの塔」の物語は、聖書における原初史の締めくくりに位置づけられています。ノアの洪水によって地上の悪が一掃された後、人類は新たな出発を迎えました。当時、彼らは共通の言語を持ち、コミュニケーションにおいて何の障壁もありませんでした。人々は東方から移動し、メソポタミア地方の低地、すなわち現代のイラク南部にあたる「シヌアルの地」に定住します。そこは、粘土レンガとアスファルトを用いた建築技術が発展していた地域でもありました。

この地で人々は、「天に届く塔を建て、自分たちの名を挙げ、地上に散らされることを避けよう」と考えました(創世記11:4)。この試みは、単なる建設プロジェクト以上の意味を持っていました。塔の建設は、人類全体が一つにまとまり、自らの力を誇示しようとする試みだったのです。

この「塔」は、後世に「ジッグラト」と呼ばれる階段状の宗教建築物に似ていたのではないかと考えられています。ジッグラトは、神々の住まう天に近づこうとする宗教的意図をもった建造物でした。バベルの塔もまた、神に至ろうとする人間の高慢な願望を象徴していたといえるでしょう。

しかしこの挑戦に対し、神は「降りて」人間の企てを確認し、言語を混乱させることで彼らを地上に散らされました。これにより計画は頓挫し、その地は「バベル(混乱)」と名づけられました。このエピソードは、単なる失敗譚ではなく、人間と神との関係をめぐる深い神学的問題を内包しているのです。


2. 神の意図と人間の高慢 — 背景にある動機を探る

バベルの塔の物語を読み解くうえで鍵となるのは、「神が人類に何を求めたか」と「人間がなぜ塔を建てようとしたか」という点です。まず、神の意図は非常に明快です。ノアとその子孫に対して、神は「地に満ちよ」と命じられました(創世記9:1)。これは、地上全体に広がり、神の創造を受け継ぎ、祝福をもたらす存在として生きることを意味していました。

しかし人間たちはこれに逆らいました。彼らは、「我々は名を挙げて、地の全面に散らされないようにしよう」(創世記11:4)と語り合いました。この言葉には、二つの深層心理が読み取れます。一つは「高慢」、すなわち自分たちの力で偉大な存在になろうとする野心です。もう一つは「恐れ」、つまり散らされることによって無力化し、存在が希薄になることへの不安です。

ここに、神との信頼関係の破綻が見られます。神に委ねて広がるべき運命を、自らの力で統制しようとしたのです。高層建築は、単なる技術的成果ではありませんでした。それは、天に届き、神に匹敵しようとする象徴的行為だったのです。

神はこの人間の意図を見抜き、介入を決意されました。興味深いことに、神はすぐに裁きを下すのではなく、まず「降りて」(創世記11:5)、人間の行動を確かめられます。これは、神が一方的な罰を好まず、状況を慎重に見極めるお方であることを示しています。

最終的に神は、言語を混乱させることで人々の結束を崩し、彼らを全地に散らされました。これにより、結果的に神の意図――地上全体に人類が広がる――は実現されることになります。人間の高慢と恐れが導いた塔の建設は、神の主権の前に無力だったのです。

この物語は、私たち現代人にも響きます。自己実現や集団の成功を目指すとき、知らず知らずのうちに神の意図に逆らっていないか。高慢と恐れに突き動かされていないか。バベルの塔は、そう問いかけているのです。


3. 「われわれ」の謎 — 三位一体神学への橋渡し

バベルの塔の物語の中で注目すべき点のひとつが、神がご自身について「われわれ」という複数形で語られる箇所です。創世記11章7節には、「さあ、降りて行って、そこで彼らの言葉を混乱させよう」とあります。この「われわれ」という表現は、聖書解釈において古くから議論の的となってきました。

ヘブライ語原文では「נֵרְדָּה」(ネールダー)という動詞形が使われており、これは明確に複数の主語を想定しています。この複数形にはいくつかの解釈が提案されています。一つは、神が天使たちに呼びかけているという説です。つまり、神と天の軍勢の協働を示唆していると考えるものです。もう一つは、「威厳の複数形」と呼ばれるもので、王族が自らを「われわれ」と呼ぶ慣習になぞらえる見解です。

しかし本稿では、より神学的な観点から、「三位一体の前兆」としてこの表現を捉えたいと思います。創世記1章26節においても、「われわれのかたちに人を造ろう」と神が語られています。このように、旧約聖書の中には、時折、神が複数形で語る場面が現れます。

新約聖書に至ると、この謎めいた複数性が鮮明になります。父なる神、子なるキリスト、聖霊という三つの位格(ペルソナ)が一体であるという、三位一体(トリニティ)の教義が明確に示されるのです。したがって、創世記における「われわれ」は、単なる表現技法以上のもの、すなわち神の内部における交わりの存在を暗示していると解釈できるのです。

この視点からバベルの物語を読むと、さらなる深みが加わります。単に人間の言語を混乱させるだけでなく、神ご自身が多様性と一致を内に持つ存在であること、そして人類に対しても「一方的な画一性」ではなく、「神の意志による豊かな多様性」を求めておられることが見えてきます。

バベルの塔が象徴する「人間中心の一致」は、外見上は強力に見えますが、神の意図から逸脱したものでした。一方、神の中にある「交わりとしての一致」は、愛と自由に満ちたものです。三位一体の神学は、私たちに「一致とは何か」という問いに対して、全く異なるビジョンを提示しているのです。


4. バベルとペンテコステ — 分裂と一致の神学的対比

バベルの塔において起こった「言語の混乱」と「人類の分散」は、一見、罰として描かれているように思えます。しかし聖書全体の流れを俯瞰すると、それはむしろ人類を本来の使命へと立ち返らせるための神の介入だったことが見えてきます。創世記9章で与えられた「地に満ちよ」という命令は、バベルでの強制的な分散によって結果的に成就するのです。

この「分裂」は、単なる断絶ではありません。それは後に「一致」へと至るための伏線でもありました。この対比が最も鮮明に現れるのが、新約聖書使徒の働き2章に記された「ペンテコステ」の出来事です。イエス・キリストの昇天後、弟子たちが集まって祈っていると、突然、激しい風のような音とともに聖霊が降りました。そのとき、弟子たちはそれぞれ異なる言語で神の偉大な業を語り始めたのです。

ここで重要なのは、ペンテコステにおいても「多言語」が登場するという点です。しかし、バベルとは対照的に、ペンテコステの多言語現象は混乱ではなく「福音の普及」をもたらしました。各国からエルサレムに集まっていた人々は、自分の母語で神の言葉を聞き、心を動かされました。つまり、バベルで閉ざされたコミュニケーションの回復が、聖霊によって実現したのです。

この対比から浮かび上がるのは、人間の力による一致神の霊による一致の違いです。バベルでは、人間たちは自己顕彰と恐れによって「一つになろう」としましたが、神はそれを拒絶されました。一方、ペンテコステでは、神ご自身が聖霊を通して人々を結び付け、多様性の中の一致をもたらしました。

今日、教会ではこのペンテコステを祝います。復活祭から50日後の日曜日に、教会堂を赤いバナーや火のモチーフで飾り、聖霊降臨を記念します。赤色は聖霊の炎を象徴し、信徒たちの心を再び燃え立たせる日となるのです。特に日本では、異文化交流が活発な教会も多く、ペンテコステは「多様な言語と文化を超えて一つになる」ビジョンを確認する機会となっています。

バベルとペンテコステ。人間中心の一致が破られ、神中心の一致が回復する。この壮大な救済史のドラマを理解することで、私たちは「真の一致」とは何かを、より深く心に刻むことができるのです。


5. 現代への教訓 — 信仰生活に活かすバベルのメッセージ

バベルの塔の物語とペンテコステの対比は、単なる古代史の興味深い逸話にとどまりません。現代を生きる私たちにとっても、大切な信仰上の教訓を与えています。特に、「誰を中心に据えて生きるのか」という問いは、時代を超えて普遍的な課題です。

バベルの人々は、自らの「名を挙げる」ことを目的とし、自己中心的な一致を目指しました。これは現代にも見られる現象です。企業の成功、SNSでの承認欲求、国家規模の繁栄競争――いずれも、自己顕彰の欲望と深く結びついています。こうした行動の裏には、バベルの人々と同じ「恐れ」が潜んでいます。すなわち、自分の存在が希薄になったり、無意味に感じられたりすることへの恐れです。

この点を踏まえ、現代の信仰生活では「神中心」を常に意識する必要があります。具体的な実践として、セルフチェックを取り入れることが勧められます。たとえば、週に一度、日曜日の夜に5分だけ家族や友人と集まり、「今週、自分の目標や行動は誰を栄光化していたか?」と振り返る時間を持つのです。これは、謙遜を育み、神に立ち返る小さな習慣となります。


6. まとめ — 神中心の一致を目指して

バベルの塔の物語は、単なる古代の神話や失敗談ではありません。それは、神との関係において人間が陥りやすい「高慢」と「恐れ」という根本的問題を鋭くえぐり出す鏡のような物語です。そして、この出来事を通して神は、私たちに「一致」とは何かを根本から問い直させます。

バベルにおける一致は、人間が自己の力と名誉を追求するためのものでした。それに対して神は、三位一体の交わりに象徴されるように、愛と自由に根ざした一致を目指しておられます。ペンテコステの出来事は、その神中心の一致が聖霊によってもたらされることを示しました。多言語、多文化、多様な背景を超えて、福音のもとに一つになる。そのビジョンは、現代の私たちにも変わらず求められています。

私たちは今日、自らの計画や目標がどこに向かっているのかを問い続ける必要があります。それは、自己実現のためか、それとも神の栄光のためか。バベルの塔の失敗とペンテコステの祝福。この対比を胸に刻み、日々の小さな選択の中で、謙遜と信頼に生きる道を歩みたいものです。

一致は目的ではなく、神の働きの結果です。私たちが目指すべきは、自らの力で一致を築くことではなく、神のもとで多様性を祝福し、与えられる一致に参与することなのです。

創世記5章の解説:学術的視点によるわかりやすい説明

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序論

創世記5章は、旧約聖書「創世記」に記されたアダムからノアに至る系図(家系の記録)です。創世記4章ではカインの子孫の物語が描かれましたが、5章ではアダムの別の息子セトの系統が示されます。この章は、天地創造と最初の人間の物語(1~4章)から、ノアの洪水の物語(6章以降)への橋渡しをする重要な位置づけにあります。一見すると名前と数字の羅列に見えますが、創世記5章には聖書全体のメッセージに関わる重要なテーマが込められており、その意味を理解することが大切です。

系図の構造

創世記5章の系図には、繰り返し現れる一定のパターンがあります。それぞれの人物について、「○○は××年生きて△△を生んだ。○○は△△を生んでから□□年生き、息子たちと娘たちをもうけた。○○の一生は合計で☆☆年であったそして○○は死んだ」という形式で記録されています。この定型文がアダムからノアまで代々繰り返されることで、文学的なリズム(一定のリフレイン)が生まれ、読む者に印象を与えます。また、この系図は全部で10世代(アダムから数えてノアが10人目)を含んでおり、聖書の他の系図と同様に区切りの良い数になっています。学術的にも、古代の文献で系図を10代ごとにまとめることは珍しくなく、この構造が意図的であると考えられます。

登場人物の特徴:エノクとノア

創世記5章に登場する人物の中でも、特にエノクノアが際立った存在です。エノクはアダムから7代目にあたる人物で、彼については「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」(24節)と記されています。他の人々には最後に「そして死んだ」と繰り返し書かれている中で、エノクだけは「死を迎えなかった」かのように描写されており、これは彼が特別に神と親しい関係(信仰)にあったことを示唆しています。新約聖書ヘブライ人への手紙11章5節でも、エノクは「死を見ることがないように移されました(天に上げられました)」と述べられ、彼の信仰が称えられています。

一方、ノアはアダムから10代目にあたる人物で、この系図の最後に登場します。ノアの父ラメクは、「主が呪われた土地での私たちの労苦をこの子が慰めてくれる」(29節)と言って彼をノア(「慰め」という意味の名前)と名付けました。ノアは創世記6章以降で詳しく描かれる大洪水の物語の中心人物であり、創世記5章では次の時代への希望を象徴する存在として紹介されています。このように、系図の中にあってノアは特別な期待を担う人物として強調されています。

神学的な考察:長寿、罪と裁き、そして新約との関連

創世記5章で目を引くのは、記録されている人々の非常に長い寿命です。アダムは930年、生涯最長とされるメトセラは969年も生きたと書かれています。学術的には、これほどの長寿が文字どおりの年数か象徴的なものか議論があります。しかし神学的に見ると、これらの長寿は神の祝福と人類の始まりの特別な時代を示すと同時に、いかに長生きしても最後には死に至る人間の有限性を強調していると言えます。

また、「そして○○は死んだ」という繰り返しは、人類が罪の結果として死を免れないことを強く印象付けています。創世記3章で人間が罪を犯したとき、神は「あなたは必ず死ぬ」と警告しました。その言葉通り、5章の系図では全ての世代に死が訪れていることが示されています。新約聖書は「一人の人(アダム)の罪によって死が全ての人に及んだ」(ローマ5:12)と教えており、創世記5章はまさにその現実を歴史として描いていると言えるでしょう。人々は幾百年も生きて多くの子孫を残しましたが、結局は皆「死んだ」のです。

しかし、神は人類を見放したわけではありません。系図が続くこと自体が、神の憐れみと計画の継続を示しています。エノクのように死を免れた人物が登場し、さらにノアという人物が備えられていることは、神が罪に対する裁きの中にも救いの希望を用意しておられることを暗示します。新約聖書を見ると、ルカによる福音書3章のイエス・キリスト系図にはアダムからノアまでの名が含まれており、創世記5章の系図は最終的にキリストへと至る救いの歴史の一部となっています。また、新約ではエノクやノアが信仰の模範として言及されており、創世記5章の人物たちは後の聖書全体にも重要な意味を持っています。

文節ごとの意味:「そして死んだ」の繰り返しの意図

創世記5章で各人物の最後に付け加えられる「そして死んだ」という言葉には、重要な神学的意図があると考えられます。このフレーズの繰り返しにより、各世代の終わりには必ず死が待っている現実が強調されています。これは、人類がエデンで罪を犯した後、避けられなくなった死の支配を表しているのです。創世記5章はそのことを単調なリフレインを通じて示し、罪の深刻さとその結果である死を強烈に印象付けています。

しかし、その単調さの中にひとつだけ例外があります。それが先述したエノクの箇所です。「そして死んだ」がエノクだけには使われず、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」と記されているのは、物語の中で際立ったコントラストを生み出しています。この例外は、神との親しい交わり(「神とともに歩んだ」)が死を越える希望につながることを示唆しているとも解釈できます。創世記5章の編集者は、あえてこの繰り返し表現のパターンを崩すことで、罪の現実としての死を直視しつつも、神との関係の中に命の希望があることを読者に伝えているのです。

結論

創世記5章は、一見地味な系図の章ですが、実は深いメッセージを含んでいます。この章は、罪による死の普遍性と同時に神の救いの計画の継続を描き出しています。アダムからノアへと至る世代の移り変わりは、人類の歴史が神の御手の内にあり、裁き(死)と恵み(命)が交差しながら進んでいくことを教えています。私たちへの適用としては、まず自分たちもまた限りある命であり、罪の現実として死を迎える存在であることを心に留める必要があります。しかし同時に、エノクが「神とともに歩んだ」ように、神との交わりの中に歩む人生こそが死を超える希望につながるのだと学ぶこともできます。また、ノアの存在は、神が必ず次の救いのステップを備えておられ、絶望の中にも希望の道を開いてくださることを示しています。

最後に、創世記5章の系図新約聖書の視点から見ると、イエス・キリストに至る系譜(ルカ3章参照)の一部として位置づけられます。神はアダム以来、人類を見捨てずにノアを経てアブラハムへ、そしてキリストへと救いの計画を紡いでこられました。創世記5章はその壮大な救いの歴史の序章にあたり、私たちに神の約束の確かさ信仰をもって歩むことの大切さを静かに語りかけているのです。

このままでいいのか?という自分に対する問い

今の自分には、昔持っていなかったものがたくさんあります。

しかしながら、神様から頂いた色々なものがあるにも関わらず、メンタリティは昔と変わらず、まるで何も持っていないかのように振る舞ってしまうことがあります。

そんな時、以下の聖書の一節を思い出すのです。

持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
(マタイによる福音書 13:12 口語訳)

「持っている人」と「持っていない人」

この箇所は、直接的には、イエスがパリサイ人や律法学者にたとえを用いて話す理由について
弟子たちが質問したことへの答えとして述べられています。

ここでの「持っていない人」とは、パリサイ人や律法学者、すなわちイエスをキリストと信じない人々を指しています。

彼らは、元々持っていた祝福の約束も失ってしまうという警告です。
(※注:「イスラエル」の意味については、パウロ書簡でしばしば議論されています。ここでは「イスラエルが教会に取って代わった」といった意味で述べているわけではありません。)

「持っている」ということの意味

「持っている」という事実は、単に物理的に何かを所有しているということだけでなく
それを認識し、いつでも使える状態にしておくことが重要です。

倉庫の奥底にしまっていて、取り出すのに一日かかるようなものは、実質的には「持っている」とは言えません。

タラントのたとえ話に学ぶ

この話に似た例え話が、マタイによる福音書 25章14節~30節にもあります。以下はその要約です。

主人が旅に出る前、僕たち(召使)にそれぞれの能力に応じて財産を預けました。

  • 5タラント預かった者は商売をしてさらに5タラントを稼ぎました。
  • 2タラント預かった者も同様に、さらに2タラントを稼ぎました。
  • 1タラント預かった者はそれを隠し、何も増やしませんでした。

主人が帰還し清算を行うと、5タラントと2タラントを増やした僕たちは「忠実な良い僕だ」と褒められ、多くを任されました。
一方、1タラントを隠した僕は「怠け者」と叱られ、持っていたタラントも取り上げられてしまいました。

この話の最後にもこうあります。

'だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 '

マタイによる福音書 25:29
https://www.bible.com/ja/bible/1819/MAT.25.29

今の時代における「持っている人」とは

「持っている人は更に与えられて豊かになる」という原則は、イエスの昇天後から終末までの今の時代においても適用されます。
エスをキリストと信じることで「持っている人」となり、その祝福は取り去られることがありません。

しかし、神様の前に立つとき、自分が「持っている」と思っていたものが、実際の人生の中では「持っていないかのように」振る舞っていたことに気づくのは、喜ばしいことではありません。

自問自答を続けることの大切さ

「このままでいいのか?」という自問自答を日々続けることで、自分が神様から頂いたものを再確認し、それをどう活用していくべきか考える機会になります。

与えられたものをしまっておいたり、人や神様の役に立てず自己満足に用いるというのは、少なくとも私にとってはもったいない使い方だと思っています。このことについて、常に「このままでいいのか」ということを自問自答しつつ、歩みたいものです。

幸いな人

皆さんは、どんな人が幸いだと思うでしょうか。

私は高専出身で、根っからの技術好きなので、その技術を使って、世界で活躍することが「幸いだ」と考えていました。

確かに、それは幸せかもしれません。若い私たちは、成功を求めるし、成功することこそが人生のゴールだと考えます。

 

このような人たちにとって、死ぬ間際のことなど想像もつきません。明日もあさっても、その次も、10年後も生きてることが当たり前だと思うし、それが一番信じやすい未来だからです。

 

ところが、人生何十年か生きてると、時々どうもそうでないように思える時が、誰にでも訪れます。

今、そのような状況に置かれている人も、きっと居るでしょう。

 

このような人たちに、僕は、聖書が啓示する「幸いな人」の定義を伝えたい。

詩篇32篇の冒頭を見てみましょう。

「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。」
‭‭詩篇‬ ‭32:1-2‬ ‭JA1955‬‬

詩篇32篇は、ダビデが詠んだとされる詩篇です。彼は王として、絶頂期のイスラエルを統治した人物でありましたが、実は大きな罪を抱えていました。

それは、部下であるウリヤの妻、バテシェバと姦淫を犯し、しかもそれを隠すために、ウリヤを前線に出して戦死させたのです。

今、政治家の不倫問題が相次いで報道されていますが、不倫どころの話ではない、もっと大きな罪を、彼は犯したのです。

 

これが日本なら、バレなければ良いじゃないかと思う方もおられるかもしれません。

でも、彼は天地創造の神を知り、その方が正義そのものであられる事をよく知っていました。なぜなら、神はイスラエルに対して、ご自身のご性質を、あらゆる方法で伝えていたからです。

 

そんな彼の所に、ある日預言者ナタンがやってきて、彼の罪を、巧みなたとえ話を用いて言い当てました。

この事を聞いたとき、ダビデはすぐに認め、悔い改めて赦しを得ました。先に挙げた詩篇は、おそらくその時期に詠まれた物だと考えられています。

 

つまり、彼は、自分が赦された事に対して、幸いだと語っているのです。

 

では、聖書が啓示する赦される方法何でしょうか。

 

それは、端的に言えば、イエスキリストが私たちの罪のために十字架で死に、葬られ、三日目によみがえり、天に昇り、今も生きて私たちのためにとりなしの祈りをしてくださっているということを信じることです。

ほとんどの人にとって、これは信じがたい事だと思います。また、別世界の話だと思うことでしょう。

私も5年ほど前、教会に初めて行ったときはそうでした。

しかしながら、不思議な導きで信じたあと、信仰を持ったことに後悔したことは、一度もありません。

あなたも、明日、教会の門を叩いてみませんか。それはあなたにとって、幸いな事だと確信しています。

 

人生の主役に専念しよう

「あなたは人生の主役です」という言葉の落とし穴

「あなたは人生の主役です!」

自己啓発系のブログや書籍を読むと、ほぼ必ず出てくるセリフである。
これは非常に魅力的なセリフであるし、なんだか本当にそんな気がしてくる。

しかしちょっとまってほしい。仮に主役は私だとして、脚本や演出は誰なのか。
自己啓発本などを読んでいると、どうも脚本や演出まで、主役がやることになっているようだ。

それはあまりにも、主役に多才さを求め過ぎではないか。

私が思うに、自己啓発本が絵に描いた餅である理由は、この点が考慮に入っていないからだと思う。

そのことに気が付かないで、自己啓発的思考によって、かえって挫折感を味わう人がどれほどいるだろうか。

このことを思うたびに、自己啓発的思考には多くの欠点がある事を認めざるをえない。

人生の脚本家や演出家は誰か

上記の議論に納得いただけたとして、次に問題となるのは、人生の脚本や演出を誰に頼むかである。

せっかく頼むなら、当然名の通った、それなりに評価が高い人が良い。

自分の好みを理解してくれて、自分が理想とする人生を作ってくれる人が良いに決まっている。

そういう思いが神格化され、体系化されたのが「宗教」である。

残念ながら、このような宗教に「キリスト教」が少なからず含まれていることを認めなくてはならない。

キリスト教史は、権力と富によって腐敗した教会の姿を何度も記録している。

私たちは、欲望が形となったようなものに、自分自身の人生の脚本を任せてよいのだろうか。

真の脚本家を探し出そう

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば見つかります。

マタイによる福音書 7章7節

それでは、真の脚本家を探し出すにはどうすればよいか。その答えは、上に引用した言葉のとおりである。

人生の価値は、自分の人生を導いてくれる存在によって決まると言って良い。
私たちは、そのような存在を熱心に探し求めることを要求されている。

これを誰にするかは、あなたが決めるべき事柄である。

しかし、私はその存在として、万物を創られた神という選択があることを伝えたい。

あなたは知っているだろうか。この天地宇宙を、そして人間をも創られた神を。

あなたは知っているだろうか。人間が神に背き、その身に罪を招き、その罪の結果が死である事を。

あなたは知っているだろうか。神はその罪を嘆き、罪の贖いのために、御子なるイエス・キリストを十字架につけられたことを。

あなたは知っているだろうか。そのイエスは復活し、そして天に昇られ、今も生きて私達のために祈ってくださっていることを。

あなたは知っているだろうか。このことを信じた私達のうちに聖霊が降り、私達が御子イエスと同じ性質に造り替えられつつあることを。

あなたは知っているだろうか。イエスはやがて地上に再臨され、この天地を裁かれる裁き主である事を。

あなたは...この神こそが、私達の人生の真の脚本家であることを知っているだろうか。


さあ、私たちは今日、岐路に立っている。神以外の何かに人生の脚本・演出を任せるか、神にすべてを任せるか。

繰り返すが、それを決めるのはあなただ。

聖書の神を人生のシナリオライターとして認め、人生における神の主権を認めようではないか。

そうすればあなたは、脚本や演出に時間を奪われることなく、主役を演じることに専念できるだろう。

人生は本来、そのように生きるべきではないだろうか。

永遠の命の再発見

永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。

ヨハネ 17:3

わたしは今まで、なんと「永遠の命」という概念を誤解していたことだろうか。

今まで、それはまるで何か「物」であるとか、「精神の状態」であるように考えていた。

しかしながら、本当の「永遠の命」とは、イエスキリストとの人格的な交わりなのである。

 

従って、永遠の命が、修行や善行によって得られるのではないということは、あまりにも自明である。

今まで、どれほどこんな簡単な真理を知らなかったのだろうか。悟らなかったのだろうか。

まさに、パウロの言うように、知っていると思っていながら、知るべき事さえも知っていなかったのである。

 

今まで、どれほど神様との交わりを避けてきただろう。

それによって、主はどれほど悲しまれただろう。

 

ああ主よ。この無知なわたしをおゆるしください。

そして、今からこの、イエスキリストとの生きた交わりに、わたしも加えてください。

 

我が主よ。わたしは、あなたを愛します。