出会い(refrain)
彼女は何かにおびえるかのように、礼拝堂の端に座っていた。どこか幼さが残る顔立ちに、触れれば崩れてしまいそうな。そんな脆さを感じた。それでも、彼女は確かに神を礼拝していた。
彼女に話しかけたのは、私の気まぐれだったかもしれない。もちろん、その気まぐれの中にも、神の御心があったのだろう。
その頃、私の心は憔悴しきっていた。長く続いた無職の期間と、学生時代に受けた深い心の傷、それに加えて新しい環境での不慣れな生活が原因であろう。それでも、私は努めて明るく振る舞った。初対面の人に対して、暗いのは失礼だと思ったから。もしかしたら、彼女もそんな気持ちで、私と接してくれていたのかもしれない。彼女は、どう見ても普通の女性に見えた。ただ、かたくなに敬語を崩そうとしない点に、どこか人付き合いの不器用さを感じた。
そんな彼女の秘密を知ったのは、あるコンサートの帰りであった。それまでぎこちない会話しか交わさなかった私たちが、初めて二人で、往復四時間ほどの道のりを共にする機会が与えられたのだ。機会は与えられたものの、女性と行動を共にするということは、私にとって一大事業のように思われた。二人っきりで何時間も会話が続くのか、とても不安だった。
しかし、そんな不安は無用であった。私たちは、まるで神様から話す言葉が与えられているかのように、ひたすらに話し続けた。他愛のない世間話を一通り終えたところで、私は本題に触れることにした。
「実は、僕は生まれつきの身体障害を持っているんだ。日常生活には支障ないけれども」
そう言うと、彼女も答えた
「実は私も、障害を抱えているんです。身体ではなくて、精神の。」
この日、私たちは、少しだけお互いを知ることができた気がした。
家に帰ってから、彼女から告げられた「統合失調症」という精神疾患について調べてみた。まず分かったのは、百人に一人が罹患する、患者数が多い疾患であること。次に分かったのは、大きく分けて「陰性症状」と「陽性症状」という、二つの症状があること。最後に分かったのは、この疾患は薬物治療が主な治療法であることと、発症の原因が正確には分かっていないこと。
私は、この病気の症状を読んで、何とも言えない痛みを感じた。目の前で楽しそうにしていた彼女は、実はこんなにも多くの症状と向き合っていたこと。それを知らずに、彼女を思いやれなかった自分の不甲斐なさ。そして何よりも、こういった病気があるという事実。
時々、私は神様の御心が分からなくなる。私自身も、自分の障害故に苦しんだことは多くあるし、障害が無ければと思ったことも数え切れないほどある。神様は、このことをご存じであるはずなのに、現状は好転しない。いったい神様はどのようにお考えなのだろうか。
そんなとき、私に一つのみ言葉が与えられた。ヨハネによる福音書 九章二節~三節だ。
弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
このみ言葉は、イエスとその弟子たちが道を通っておられた時、生まれつきの盲人を見た時に行われたやりとりである。当時のユダヤでも、今日の日本においても、障害は罪の結果であると考えられていたのである。それに対するイエスの返答は、当時の常識を全く覆すものであった。
「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」
私が障害を持って生まれたのも、もしかしたら今日こうして、彼女を思いやる心を得るためであったのかも知れない。そう思えた。それと同時に、彼女を愛する思いが与えられた。
それから、私は「統合失調症」に関する本を買い込み、時間があれば読むという生活を送った。この病気は不思議なもので、患者さんが十人いれば、十通りの症例があるといっても過言ではない。そのくらい、理解が難しい病気なのである。
いろいろな本を読み進めていく内に、私の中でくすぶっていた「彼女のそばにいて、支えたい」という思いが、いよいよ実感として沸いてきていた。そうして気付けば、私は電話越しに告白を始めていた。