Joy to the world

とある中小企業のしがない技術者でクリスチャンな人が書く日記。実はメビウス症候群当事者だったり、統合失調症のパートナーがいたりする。

イエスを仰ぎ見つつ

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。
ヘブル12:2

エスを仰ぎ見つつ走るとはどういうことだろうか。

パウロはコリント人への手紙1 1章で、信仰生活をマラソンに例えて話している。

そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。

パウロは言っているが、ここでは何のことを言っているのだろうか考えてみた。これは私の考えであるが、パウロはここで、かつて属していたユダヤ教の口伝律法を思い起こしていたのではないだろうか。

旧約聖書から離れてしまい、歴代のラビが教えた口伝律法を重んじていた頃のことを「目標のはっきりしないような走り方」と言っているのではないだろうか。

ある一定数、目的がないのに「頑張ること」に重きを置く人は存在する。彼らにとっては頑張っている対象なんて取って代えられるものであり、頑張っている自分を強調するアクセサリーの一つでしか無い。

これは何も、「キリスト教」がそうではなくて、他の宗教がそうだと言っているわけではない。自分たちは「正当なキリスト教」だと宣い、他のいわゆる異端勢力を目の敵にしているどこかの集団も、これに陥っている可能性は十分にありえるのだ。

私は、ある集団をキリストに従っているとか、従っていないとか裁くことはしない。それは神がなされることだし、自分たちの判断なんて、所詮見えている部分での判断にすぎない。

しかしながら、自分たちはキリストの弟子だと自認し公言しているならば、現状を顧みて、日々改善するということは責務と言っても過言ではない。その性質上、キリスト教というのは偽善に陥りやすいし、自己欺瞞にも陥りやすい。そのへんはニーチェ先生が存分に語ってくれるだろう。

私は既存の勢力をぶっ潰したいのではなく、なんとか自己内省して、神様に立ち返ってほしい。そう願うばかりである。