供養とかクリスチャンらしくないけど、供養以外の言葉が思いつかないのであえてこの言葉を使うことにする。
人生において嫌だったことを思い出すということは、正直あまりやりたくないことだ。できれば闇に葬り去りたい。
ではなぜいきなりこんなことを語りだしたのかというと、ゆゆうたさんの切り抜きをYoutubeで見かけたからだ。彼を知っている人ならわかると思うが、現場監督時代の辛かったことを、割と明るめに話している。
あれを聞いていて、自分もそろそろあんなふうに嫌だったことを笑い飛ばせるようになったかなとふと思った。そういえば、あの頃嫌だったことをちゃんと言葉にしてなかったなぁと。
高専時代の研究室での出来事
高専時代、初めて入った研究室がブラック研究室だった。深夜まで居るなんて当たり前だし、休みなんか殆ど無かった。指導教員が深夜まで居るから、自分も奴が帰るまで帰れないのだ。こっそり帰った次の日には、すごい勢いでどやされるのである。
ブラックあるあるな話なのだが、なぜか外側の体裁は良い。地域貢献みたいなこともやってたし、学会発表もそれなりにやってた。
この研究室、入った時点ではそれほどブラックではなかった。ただ、何をトチ狂ったか、自分がさほど興味もない指導教員の博士課程時代の研究の続きをやることを決めてしまったのがきっかけで、ブラック化してしまったのである。
今思うと、ブラック化した要因の一端に自分もあるような気がしなくもないが、これは多分洗脳の名残なのだと思う。まあ、明らかに興味なさそうにしてる奴が、口だけやるって言ってるのは確かにむかつくかもしれんが、大人がやることじゃねえなあれは。自分ももう当時の指導教員くらいの年齢になってしまったが、あのクソみたいな指導方法だけはしないように心がけている。そういう意味では反面教師なのかもしれない。
自分もさっさと研究室を変えればいいのだが、当時は研究室を変えるという発想がまったくなかった。
これ多分、ブラック企業をなかなか辞められない人と共通の心理状態だと思うのだけれど、ブラックであればあるほど、構成員を簡単に辞めさせたがらない。ブラック企業では
上司 「お前使えねえな辞めちまえ」
部下 「すみません続けさせてください」
上司 「邪魔なんだよさっさと辞めちまえ」
部下 「じゃあ辞めます」
上司 「まあ考え直せよ飯奢ってやるからよ」
こういうやり取りが行われているとのもっぱらの噂だが、このコントみたいな馬鹿げた会話がブラック研究室でも行われるのである。こんなことされたら頭おかしくなるで。
頭おかしくなったあとの話
でまあ、実際頭おかしくなってメンタルをやられてしまい、無事精神科通院ですよ。ブラック研究室を脱出したのが専攻科1年くらいだったと思うんだが、それ以降ずっと実家から学校に通いつつ、ろくに研究もしないまま過去の成果物をツギハギして学士論文を書いた。この頃はまじで辛かった。研究室を抜け出す前から、何回死んでやろうかと思ったか分からんくらいに辛かった。
それで、こんな精神状態でまともに就職活動をできるわけもなく、無事就職先が決まらないまま卒業してしまったわけです。
そもそも、就職活動の方向性自体が頭おかしいんだよなぁ。高専の低学年の頃、定年間際の技術職員の方に色々とお世話になって(某レンタルサーバー会社の社長をはじめ、何人かの母校出身のIT業界人を知っているくらいキャリアが長い方だった)、その方に憧れて技術職員を目指すなんてトチ狂ったことを考えていたのである。
技術職員だけの話ではないが、アカデミックやお役所の定員というのは驚くほど少ないので、自分みたいなガクチカがほとんど無い(実はあったが無いと思いこんでいた)自分には縁のない求人だったのだが、当時はそれがわからなかったのである。多分、周りの人がそれとなく教えてくれていた場面はたくさんあったと思うんだが、当時は全くそれが分からなかった。そもそも、自分どう考えても公務員向きじゃねえ。
結局半年ほどブラブラしたあとに、とある縁で面識があった経営者の方に拾われて、今の会社に在籍している。
就職したあとの話
やっとこさ就職できたと思ったのもつかの間、今度は当時としては不本意だと思っていた人事異動を命じられた。自分はもともと技術職として入社したのだが、異動した先は現場で、それからは怒られながらなれない現場作業をする日々が続いた。
最初の5年位はただひたすら高卒の子達と同じように作業を繰り返す日々で、まじで自分何やってんだろと思ったのを覚えている。専攻科まで出てやるのが現場作業なのかと・・・。
誤解しないでほしいのだが、現場作業も立派な仕事の一つである。どれだけ完璧な計画を立てたり、手順書を作ったり省力化する仕組みを作っても、それをオペレーションする人間が居ないと何もできない。彼らが日々真摯に仕事に取り組んでいてくれているからこそ、会社というのは事業を継続できるのである。
転機が訪れたのは、就職してから多分6年目くらいからだったと思う。確かに自分は現場作業メインの仕事ではあったが、時間を見つけては業務知識を蓄積していったり、工程全体の問題点などを意識しつつ仕事をしていたのが功を奏し、ライン管理をするためのシステムを構築するチャンスが巡ってきた。
これもまあ運が良かったというか、クリスチャン的に言えば神様の導きであったのだと思うのだが、タイミングよくある程度まとまった予算を引っ張ってくることができて、ある程度まともなWebシステムを構築することができた。
それからはもうトントン拍子で、いくつかのシステム構築をこなしたあと、3Dプリンタの導入などを経て、今の生産技術的なポジションに落ち着くことができた。
若い頃の苦労は買ってでもするべきか
こういった文章を書くと、毎回なんだかヨカッタヨカッタみたいな終わり方になってしまうのだが、この結果だけを見て「若い頃の苦労は買ってでもすべき」だとは自分は思わない。
人間というのは、自分の過去や生まれつきの境遇を、何かしらの理由をつけて肯定しないと生きていけない弱い生き物である。例えば自分の場合、自分の障害であるメビウス症候群についても、正直色々と過去に葛藤があったとはいえ、今では自分の一部として受け入れられている。
まあ生きている以上、こうやって過去や自分の境遇を肯定して生きていくしか無いのだが、これを他人に強要するのは間違いだと思う。苦労なんてしない方が良いに決まってる。
ここまで一気に文章を書いてきたが、書いてみるとやっぱりスッキリするものである。やっぱりブログっていいな。